この本がよかった |
このページには、私が読んで良かったなと思う本の感想を書いていきたいと思っています。しかし、本というものは、読み手によって感じることも様々。私が書評を読む中でも、中には「どうしたらそんな風に感じられるの?よほどつらい人生を送ってきたのね。」というような感想もあったりします。それならば書評は本当に必要かというと・・・必要です。やはり「感じる部分は様々でも、いいものはいい」(←オイオイ、本当に言い切ってもいいのか?)」と思うからです。だからこの書評は、中身にはあまり言及しません(そんなので書評か?)。思いついたことをだらだらと書くだけ。分野はバラバラ。書く時もバラバラ。そんなのでもよかったら読んでみてやってください。 |
No89 「ニッポン沈没」 斎藤美奈子 2016.2.8 2010年8月から2015年6月までの社会状況を、出版された本を紐解きながら、1月ごとに辛口で解説していく本であった。大きく「激震前夜」「「原発震災」「安倍復活」「言論沈没」の大きく4つの区分(区分の仕方は内容ではなく、時期的なものに特徴的な表題をつけたもの)でまとめ、テーマに沿って毎月3冊の本を中心に取り上げることで、その時々に起こった社会現象を切り味鋭くえぐり、私たちの前に差し出したというものであった。取り上げる3冊の本はどちらか一方に偏ったものではなく、両方の立場からの本が多かったが、地の文は今の政府に物申すという内容が多かった。これが小気味よく、けちょんけちょんに書き記しているので、「そこまで言うか」という内容も多かったが、おもしろく読み通すことができた。特に取り上げられている本は、主義主張の本ばかりではなく、小説本だったり、ルポだったりして、何冊かはこれから買う本のリストに入れた。私と意見が異なるような本であっても、ぜひ読んでみたいというような書き方がしてあった。 テーマは、震災はもちろん、橋下市長の話であったり、世界史の本が売れる理由であったり、もちろん安倍首相のこともあり、かたやリニア新幹線から、マルクスまで多岐にわたっている。中には『朝ドラの主人公が「天然」である理由』などというのもあって、なかなか楽しむことができた。これからはここで紹介された本を読んで、また楽しみたい。 筑摩書房 「ニッポン沈没」 (1600円+税) |
No88 「自画像」 朝比奈あすか 2016.2.8 教室という閉ざされた空間で教師は権力を有する。それは対象とする児童・生徒が幼いうちは特に絶対的なものである。 いわゆる「ひいき」をするといわれていた教師は私も出会ったことがある。それが多感な十代の女生徒であればその及ぼす影響は大きい。少女たちは教師をはじめとする教室のありように、世界の終わりが来たかのように悩み、悲しむ。「悩みがあるといっても、年を取ってから見れば一時的なものだし、その時期を過ぎてしまえば笑い話にできるのよ」といえるのは大人の傲慢であろう。その渦中にいる子どもたちにとっては、世界の何事にも代えがたい大問題なのだから。 大学時代、私は理学部数学科というところに属していた。その当時、その学科には卒論というものはなく、英語で書かれた数学の本を元に、何人かで輪番に教授の前で解説していくというのが大学4年生に課せられた卒業のための条件であった。 私のゼミは3人で「解析的整数論」というものを学んでいた。数学の専門書なので、英語を日本語に訳すのはそんなに難しくはないが、書いてあることを理解するのは別の話で、私たちは誰の担当であろうと3人で集まって勉強会(授業の予習)を行っていた。 ある時、いつものように「書いてあることが数学的に分からない」という部分に突き当たり、3人して途方に暮れている時だった。窓の外から学校帰りらしい小学校低学年の楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてきた。行き詰まっていた私たちだったので、一人が「いいな、あの年ごろは悩みがなくて」と言った。そうすると、ほかの一人が、「あの子らだって精一杯悩んでいるよ。確かにその中身は私たちから見ればたわいないものかもしれないけど、それでも本人らにしたらとっても大きな悩みに違いないよ。」と言った。私はそれを聞いていて、なるほどと友人が言ったことに感心したことを思い出した。 悩みというもは共有できるものではないだろう。しかし、悩みを持つ者どうし、わかりあえることもあるに違いないし、少しでもわかろうと努力を重ねる人もいる。 この物語の最後には救いがある。それがあるからこそ、この厳しい世の中を生き抜いていく力にもなるのだと考える。 双葉社 「自画像」 (1500円+税) |
No87 「風に舞いあがるビニールシート」 森絵都 2016.2.8 これはある学校の図書部員が編集している「おすすめの本」という小冊子の中で見つけた本である。日頃から素晴らしい本を見つける能力に一目置いているO先生のお勧めの一冊だったので、手に取ってみた。 森絵都は以前に「永遠の出口」を読んでいたが、あまり印象に残っていなかった。 「器を探して」「犬の散歩」「守護神」「鐘の音」「ジェネレーションX」「風に舞い上がるビニールシート」の6編だが、どれも人生の断面、しかも印象的な生き方の刹那を切り取って差し出すその筆力に感心した。私が一番印象に残ったのは、「守護神」である。自分の代わりに提出すべき論文を書いてくれる人がいる。それも、その人に合った書かたで書くため、これまで一度も見破られたことがないし、優秀な成績を得ることができる。しかし、だれでも書いてくれるわけではなく、それにはおきてがあって…。 主人公裕介は、そんな噂を耳にして、「ニシユキ」を探す。1年目はけんもほろろに断られる、というか、ニシユキは「激昂」してしまう。そして1年後再び依頼する裕介にニシユキが差し出したものは…。ほかの短編もそれぞれに深い印象を残した。やはりO先生のおすすめは間違っていない。ただ、O先生はハードボイルド好きだが、私は安楽椅子好きだ。そこだけが、大きく違っている。 文藝春秋社 「風に舞いあがるビニールシート」 (1400円+税) |
No86 「愛と暴力の戦後とその後」 赤坂真理 2016.2.8 赤坂真理という名前はどこかで聞いたことがあると思ったら、以前読んだ「東京プリズン」の作者だった。「東京プリズン」は毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、紫式部文学賞を受賞した作品だったが、あまり印象に残っていない。それよりもこの作品のほうがずっとおもしろかった。 これは小説ではなく評論である。No67で書いた小熊英二の「社会を変えるには」の本の系統に連なるものだと思う。まえがきにもあるように、「これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である。」とあるように、歴史学者でも社会学者でもなく小説家である筆者が感じたことを調べて書いたものだから読みやすかったのかもしれない。 1964年生まれの筆者と私はわずか6歳しか違わない。当然同じようなものを見て育ってきているのである(厳密には、文中に出てくる筆者の兄の方に私の感覚は近い)。出てくる内容は「消えた空き地とガキ大将」「安保闘争とは何だったのか」「オウムはなぜ語りにくいのか」など、同じ時代を共有しているものとして感じることが多い。そして、「1980年の断絶」「この国を覆う閉塞感の正体」「憲法を考える補助線」などで述べられている中身に、私は感じるところが多かった。 例えば「憲法を考える補助線」の中で語られている日本国憲法について、「アメリカの押し付けだから破棄すべきだ」という物言いを紹介する一方、『「私たちがつくったものではないが、美しく、私たちの精神的支えとなってきた」と言えないだろうか。』と書いてある。まったく同感である。 1年間で10刷を重ねたこの本は読むに値する本だと思う。 講談社現代新書 「愛と暴力の戦後とその後」 (840円+税) |
No85 「砂の街路図」 佐々木譲 2016.2.8 父のことが知りたくて北海道に赴く主人公。そこには主人公が知らなかった父の姿があった。 運河の町ということでやはり小樽を思い浮かべる。この運河の町で何が父に起こったのかはこの本を読んでもらうこととして、この書評が書きたかったわけは、その運河に浮かぶ幽霊船が印象に残ったからだ。 夫婦が乗る幽霊船が運河に現れる。エンジン音はしないが、水面をすべるように走る幽霊船。 過去に興味を持つものだけに見えるという幽霊船をここに出すことで、作者は何を暗示したかったのだろうか。 佐々木譲というと、冒険小説、警察小説の旗手としての認識しかなかった。もちろんこの小説にしても、亡くなった(運河で溺死した)父親のことを解明していこうというミステリーの要素を含んではいるが、私はもっと違うタイプの小説を書く人だという認識しかなかった。冒険小説や警察小説にはあまり手が伸びない私が、佐々木譲と認識しながらもこの本を手に取ってのは、惹かれれものがあったのだろう。 そうしたわけで、読み終わったのちも、本質とは無関係である幽霊船のことが心に残った。 いつか運河のある街に行き、幽霊船を探してみたい。 小学館 「砂の街路図」 (1500円+税) |
No84 「王妃の離婚」 佐藤賢一 2015.9.20 この本の表紙は本屋で何度か目にしたことがあったが,なんだか宗教めいていて,西洋の話(しかも中世)の話のようで,これまで手に取っても買うことはなかった。 ところが日経文芸文庫の「読み出したら止まらない! 時代小説 マストリード100」を読んでいたら,この本があまりにも魅力的に書いてあるのでさっそく注文して読んでみると,想像通り,いや想像以上に魅力的な本であった。 中世のフランスにおいて,ルイ12世が王妃ジャンヌを離婚(正確には,当時のキリスト教世界において離婚はできなかったので,「結婚の無効」)したのは,歴史の一コマとして真実である。これを佐藤賢一はルイ12世が結婚無効の裁判(当時司法権はローマ教皇が持っていた)を起こし,王妃がそれに反発したという筋書きで,裁判の模様を描き進めていく。初めは王妃の父であるルイ11世に恨みを持っていたから王妃が負ければいいと思っていたフランソワだったが,ジャンヌの一途な思いに協力をしていくことになる。しかし相手は一国の王であり,いくらローマ教皇が裁判権を持っているとしても,不利な戦いはいがめないところであった。しかし,大衆の世論を味方に,証拠固めをしていき,次第に優位になっていく。 この裁判は,フランソワの若い時の出来事にも大いに関連しており,フランソワ自身が自己を取り戻す闘いでもあった。やがて裁判は大詰めを迎え,フランソワの秘密も暴かれる中で,終焉にとなだれ込んでいく。佐藤賢一の他の作品も読みたくなる圧倒的な力を持った作品であった。 この作品は第121回の直木賞を桐生夏生の「柔らかな頬」と同時受賞しており,そのときの候補には他に,天童荒太の「永遠の仔」,宇江佐真理の「紫紺のつばめ」,黒川博行の「文福茶釜」などがあった。それだけでも,力を持った作品であることがわかるし,自分自身の「食わず嫌い」を反省するところでもある。 集英社文庫 「王妃の離婚」 (690円+税) |
No83 「春や春」 森谷明子 2015.9.20 もともとは桜庭一樹の書評「桜庭一樹読書日記」で「七姫幻想」を読んだのがきっかけで,それから森谷明子の本は,目につけば買ってしまう。これもそうした本の1冊である。もともと森谷明子は源氏物語など歴史ものを得意としている作家という認識だったが,近頃は「緑ヶ丘小学校大運動会」など,現代ものにも領域を広げてきている。これもそうした1冊で,現代の女子高校生が主人公だ。その女子高生は次のようにのたまう。 「世の中の男たちは,やっぱり「セーラー服」に幻想を抱いているのだろうか。だとしたら,教えてやりたい。女子高校生が1日十時間近く,通常,クリーニングに出すこともなく百日以上は身に着けているセーラー服の実態を。(中略)乙女の汗も体臭もフライドポテトの油もソフトクリームの滴も学食のミートソースも,すべてしみこませたセーラー服。」 こんなショッキングな言葉から始まるこの本は,俳句のきらいな国語教師に反発して,仲間を集め俳句甲子園に出るまでを描いた青春小説である。 もちろんすんなりと俳句甲子園に出られるわけもなく,いやそれ以前に俳句をやる仲間を集めることは想像するだけで困難だと感じる。現代の女子高校生が俳句に対して持つであろう感想は,古臭い,難しそう,ジジくさい,5・7・5に当てはめられるの?,季語ってなに?,切れ字って?などなどである。それを乗り越えていくのが,青春小説の醍醐味である。 文中にはたくさんの俳句が出てくるが,そのほとんどがオリジナルであり,森谷さんが考えてのであろう。同じ兼題で様々な俳句を作り出すのは,歴史小説を得意とする森谷さんならではだが,それでもよく考えたなという俳句が並んでいる。つまり,同じ兼題でたくさん俳句を作ればいいというものではなく,様々な視点からまったくイメージの異なる俳句を作りださなければならないからだ。 私自身,短歌よりも俳句が好きなので,より感情移入ができたが,それを差し引いてもなかなかに楽しめる作品だった。 光文社 「春や春」 (1600円+税) |
No82 「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」 堀川惠子 2015.8.25 暑い夏、ヒロシマは祈りの場となる。そして本屋には戦争や原爆関連の本が並ぶ。 ヒロシマに生まれたものとして、小さい頃から繰り返し平和教育を受け、自らも進んで多くの書物を手に取ってきた。私にとっては重苦しいものではあるが、やはり無視しては通ることができないものを含んでいる。 戦後70年。この本もそれほどの期待はしないで、しかし手に取らずにはいられない想いに突き動かされてページをめくった。そして、この本のすばらしさに、最初からぐいぐい引き込まれた。 私は今年になって、今日までに150冊ほどの本を読んだが、その中でNo1の本であった。 これは原爆供養塔にまつわるノンフィクションである。現在は「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文で有名な原爆死没者慰霊碑が平和公園のシンボルとなっている。ここには原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められている。その同じ平和公園内に、ひっそりとこんもりとした丘の形の遺骨安置所と原爆供養塔がある。ここには、名簿ではなく、何万人とも言われる(正確な数はわかっていない)遺骨が納められている。一人ずつの遺骨を納めた骨壺の他に、何人もの遺骨が一緒になって納められている大きな箱もある。そこには名前がわかっていても引き取り手のない遺骨や、名前さえわからない多くの遺骨が眠っている。 この供養塔をずっと守り続けていた人がいる。佐伯敏子さんだ。彼女自身被爆者で、原爆症を抱えながら、来る日も来る日も黒い服(喪服)を着て、供養塔の周りを掃除し、供養塔に来る人がいれば自らの体験を語り、また遺骨をわずかな手掛かりを元に遺族に届け続けてきたのだ。 半世紀近く供養塔のそばに立ち続けた佐伯敏子はある日病に倒れ、供養塔に通うことはできなくなる。それを堀川惠子は聞いたものの責任として跡を継ぐ仕事を始める。 私はこれを読んで、何度も涙が流れた。物事が「得になる、ならない」で判断され、ひととひととの結びつきが希薄になる現在、思いの丈を辿りその志を継ごうという人がいることに。 筆者は次のように書く。「すべてはいずれ、忘却の淵へと消えていくだろう。しかし幸いなことに、私たちにはまだ、少しばかりの記憶と時間が残されている。」 この夏、本当に良いものを読んだという想いを持つことができた。 文藝春秋社 「原爆供養塔」 (1750円+税) |
No81 「若者の法則」 香山リカ 2015.3.12 最近同僚と話をしていて、生徒が落語の「時蕎麦」がわからないという話を聞いた。まあ、これはうなずける。次に、階段の「踊り場」がわからないという話も聞いた。これもまあ、うなずける。最後は自分自身の体験として、「不思議の国のアリス」を知らない生徒がいて、これには驚いた。でもまあ、21世紀が始まる頃に生まれた年代とのゼネレーションギャップをいっても仕方がないのかもしれない。 図書館で見つけて手に取った本である。私は基本,読む本は自分で買った本を読むのがほとんどであるが,中にはこうして借りて読む本もある。したがって,借りて読むのは,おもしろそうな本,興味の湧く本でないとなかなか手に取らない。 香山リカは共著ではあるが「ネット王子とケータイ姫」という本を読んだことがあり,本屋でも見かけることがあったが,今回調べてみるとびっくりするほどすごい数の本を出している。 この本「若者の法則」は私たちから見ると不可解な行動形式が多い。しかし,そこには彼らなりの論理に基づいた行動となっている。その論理がいかに私たちから見てかけ離れているものであるにしても,やがてはこの論理が世の中の主軸になっていくことも考えられる。筆者はそうした若者の行動を規定している論理を明快に解き明かしてくれる。 例えば「電車」では,若者が電車の中で化粧をしたり,カップル同士でベタベタするのは,若者にとって「仲間以外はみな風景に見えている」からだという。そういえばかつて,他の人の本で,電車とかで若者が他人の足を踏んでも謝らないのは,決して悪気があるわけではなく、仲間以外は人として認識できていないからだというのがあった。仲間として認識出来るようになれば、その人を気遣うことが出来るのだが、それまでは石にけつまずいた位にしか認識していないというのだ。 筆者は今後「若者のルールにシフトしていくのも仕方がないのではないかと思う一方で,『それは意外にむずかしいことかもしれないな』と感じている。なぜなら,『他人の目を意識しない』ということは簡単だが,『自分も他人を意識しない』ことはかなり高度なテクニックを要するからだ。」と書いている。仕事や家庭でのストレスがたまってくる年代になったとき,「自分はやりたいことをやるけれど,他人がそうするのは耐えらない!」と”キレる大人”が続出するのを心配している。この部分の他にも同感できる部分が多い。 筆者はそれ以外に学校,お金,化粧,ダイエット,大人など全部で50項目挙げて,若者の行動パターンとなぜそういう行動をとるのかということを解説している。非常にわかりやすかった。この文章を書くためにこの本の奥付を見ると発行は2002年で10年間で21刷までいっている。今読んでも決して古めかしくなく,若者の心情を若者自身が意識していない部分まで解説した本としてはピカイチである。 岩波新書 「若者の法則」 (720円+税) |
No80 「ワン・モア」 桜木紫乃 2015.3.12 私は本来ベストセラーや話題になった本はあまり読まないことを信条にしている。もちろん何年かたって読むこともある。15年前に話題になった「話を聞かない男,地図が読めない女」を読んだのは先月のことである。でも中には,話題になった本をタイムリーに読むこともある。この原作者桜木柴乃は2013年「ホテルローヤル」で直木賞を受賞した。この時読んだ書評がきかっけとなり「ホテルローヤル」を読んだ。作者のクールな視点が気に入り,その後「硝子の葦」「星々たち」などを読み,この「ワン・モア」にたどり着いた。 この作品は,直木賞受賞よりも前に書かれた作品(「硝子の葦」よりは後)で,まだあまり売れてないときの作品であるが,このたび文庫に落ちたのを機会に買って読んでみた。 この作品は一つの流れがありながら,それぞれの章で主人公を替えて語っていく連作となっている。だから,次の章では先ほどの視点の裏側から物事を見直すということが起こる。その仕掛けも面白かったが,それ以上に内容がよかった。安楽死事件を起こして離島に飛ばされた美和,その友達で病院を経営していたが余命宣告を受ける鈴音,それを取り巻く男たちや看護師との葛藤などそれぞれが精一杯生きようとし,挫折や失敗も繰り返しながらも決して作者の視点はそれを見離そうとしない。そこにいくばくかのあたたかさを感じる。題名の「ワン・モア」も,「さまざまに挑戦することは決して一度で終わりではなく,挑戦してもしダメでも,もう一度挑戦すればいい」というメッセージにも聞こえる。今後も読み続けていきたい作家の一人である。 角川文庫 「ワン・モア」 (480円+税) |
No79 「君の波が聞こえる」 乾ルカ 2015.3.12 私が今一番はまっているのはこの乾ルカである。No65,No72にも書いたが,この1年はこの人の本を読みまくって,出版されている本はほとんど読んだ。これまで読んだ乾さんの本は少々おどろおどろしい本が中心で,そこがまた魅力でもあったが,この「君の波が聞こえる」という本は,ファンタジーと称するべき分野の本であった。 主人公は沖に浮かぶ謎の城に迷い込む。そこを出るためには「出城料」が必要で,それを持っている人と持っていない人がいる。さらに,持っている人でも,無くなってしまったり,逆に最初持っていなくても途中で手に入れることもある。さらに,次第に無感動になっていくと,最後には連行されて強制労働に従事させられる。そうなると二度とその城からは,出ることはできない。 主人公は,城に入って出会った少年と次第に心を通わせ始め,城を出て行くことを決心して,そのために努力を続ける。しかし,物語の結果はあまりにも切ない。 筆者の乾さんはあるインタビューで「最後のあの1行を書きたいがために,すごく長い前ふりを書いたというようなところがあるかもしれません」と述べている(この部分,孫引き)。 作家は,渾身を込めた1行を書きたいがために,あのような長編小説を書くことがあるということが,よくわかる作品であった。 新潮文庫 「君の波が聞こえる」 (630円+税) |
No78 「クローバー・レイン」 大崎梢 2015.3.12 大手出版社に勤める主人公が,反対されながらも,「これだ」と思った一冊の本を出版していくまでの軌跡を描いた本だ。 作者の大崎梢はこれまでの「配達あかずきん」「サイン会はいかが」「平台がおまちかね」など,書店を舞台にした作品を多く手がけていて,それがどれも素晴らしい作品だった。また,それとは別に,No55にも書いた,「夏のくじら」など,青春の悩み,やるせなさとともに,エネルギーのほとばしりを感じさせる作品を手掛けてきた。 この作品もまた,大手の出版社の中で,「落ち目」の作家の偶然手にした作品のすばらしさに気付いた主人公が,たくさんの障害を乗り越えながら出版にこぎつけるその姿は,心から応援したくなってくる。 これを読んで,2012年に本屋大賞を取った,三浦しをんの「舟を編む」を思い出した。辞書を作るのと同様に,一冊の本を出版するためには,さまざまの工程と人の手を経なければならない。紙,活字,表紙のデザイン,価格決めなどやることはたくさんある。そうして本は私たちの手元に届くのだが,私たちはそれを読んで「おもしろい」とか「つまらない」・・・など様々な感想を持つが,その本を手に取る前の書店でパッと見た瞬間,そしてそれ以前の新聞広告や書評からすでにその本は私たちに届いている。 作中に出てくる「シロツメグサの頃」というこの本がとても読みたくなった。内容は文中で触れられてはいるが,主人公が手塩にかけ,作り上げたこの本をぜひ手に取ってみたい。大崎さんは書いてくれないかなあ。 ポプラ文庫 「クローバー・レイン」 (680円+税) |
No77 「四十九日のレシピ」 伊吹有喜 2014.7.20 No74の「ミッドナイト・バス」に続いての伊吹有喜の作品である。乙美(おとみ)がなくなった後、四十九の法要までのできごとを綴った作品である。熱田良平の再婚の相手である乙美は料理が好きで、家事をてきぱきここなす、決して美人ではない小太りのおばさんである。亡くなって二週間目に井本という髪の毛が黄色で日焼けで顔が真っ黒の女の子が良平を訪ねてくる。福祉施設で乙美先生に世話になって、良平の面倒を四十九日まで見るようにアルバイト代も貰っていると言う。そこに、良平の娘の百合子が帰ってきて、ややこしいことになる。 この作品には、ポロローグを除いて直接乙美は出てこない。しかし、良平、百合子、井本がそれぞれの感じ方を通して、在りし日の乙美を描き出す。それは家族を大切にし、福祉施設の生徒を大切にし、自分が亡き後もみんなが幸せに生きていけるような道筋を付けていく乙美の姿であった。 この作品には私にとって二つの印象的な言葉が出てきた。一つは、福祉施設の元園長の聡美の言葉で「私たちはテイクオフ・ボードなのだ」という言葉だ。自分たちは後から来る人のためのテークオフ・ボード(跳び箱の踏切板)だ。思い切り走って、板を踏み切って箱を飛んだら、もう思い出さなくてもいい。過去を飛び越えたことに自信を持ってまっすぐ走っていけばいい。思い出してはいけない、飛ぶ前の世界のことなど。 もう一つは、どんな人も「○○で生まれる」という言葉で始まる。そしてその後は誰一人として同じものがない。全く別々の道を歩んでいる人たちが、ほんの一瞬、同じ時を共有して、そして別れていく、という言葉だ。 これも「ミッドナイト・バス」と同様、家族のあり方を描いた作品である。こちらの作品の方が早く書かれ、「ミッドナイト・バス」の方は直木賞の候補になったが、私は「四十九日のレシピ」の方が良かった。 ポプラ社 「四十九日のレシピ」 (1400円+税) |
No76 「野槌の墓」 宮部みゆき 2014.7.20 私は活字になっているものはできるだけ読む癖がある。雑誌・新聞はもちろん携帯電話を買ったときには、あの分厚い取扱説明書も全部読んだ。食品に必ず書いてある成分表なども読むことがあるが、読まないものもある。それは、SFと少女漫画である。基本的に私はリアリティが好きなのであるが、SFや少女漫画を全然読まないわけでもない。特に最近は、乾ルカにはまってしまって、これは怪奇現象というか、人知を越えたものを書くのを得意としているので、SFとは違うが現在の科学ではすんなり説明が付かぬものをいろいろと楽しんで読んでいる。 宮部みゆきも推理小説もたくさん書いているが(推理小説は原則説明が付く物語である)、怪奇小説もたくさん書いている。これもそのたぐいの作品で、化ける猫やつくも神が出てくる。 主人公の源五郎右衛門とその娘の加奈、そして差配さんの家にいるタマとのかねあいが良い味を出している。タマに頼まれて源五郎右衛門がつく神をやっつける話なのだが、それぞれの思いが絡んで、感じの良い終わり方をしているのである。 角川文庫 「お文の影」 (640円+税) |
No75 「イレギュラー」 三羽 省吾 2014.6.10 三羽省吾の作品は、「路地裏ビルジング」「太陽がイッパイいっぱい」「厭世フレーバー」に続いて4冊目である。最初、「路地裏ビルジング」は「ジャケ買い」に近かったが、これがなかなかおもしろかったので、続けて読むようになった。そして今回の「イレギュラー」である。 台風による洪水で過疎の村が流され、一村まとまって来た町で野球部を再建しようという、「熱い熱い」作品である。中心となるのは、ニナ高で速球に自信のあるピッチャーのコーキと、太めだがパワフルな打力を誇るモウ、そしてそれを見守る監督のダルマである。もちろん彼らは、最初は練習後のタバコもビールもけんかも何でもありの高校生だった。しかし、コーキが投じた自信の速球を完膚なまでに打ち込まれ、「なにくそ」の思いで練習に励んでいく青春ストーリーである。 そこに、甲子園で活躍したK高のナインやその監督である結城が絡む。結城はK高をニナ高のはちゃめちゃな行動をうまく利用してK高を強くしていこうという思惑もある。そして結城の高校時代の恩師がダルマこと大木である。そしてこの大木は結城の選手生命を断ち切ったイレギュラーに大きく絡んでいるという、読み応えたっぷりの作品に仕上がっている。 この作品のテーマともなったイレギュラーは次のように説明してある。「イレギュラーバウンドには、百点満点の対処法などない。ただ、打球がはねる方向は予測出来なくとも、イニングや天候、グラウンドの荒れ具合、投手の球種と打球の回転など、あらゆる条件を頭に入れて”起こり得る”ことは想定出来る。あとは、己の経験値と練習量と反射神経を信じて、うまくグラブで処理出来ないまでも決して逃げず、正面からぶつかる勇気を持つこと。」 そして私が一番心に残ったのは、「イレギュラーで最も忘れてはならないことは、イレギュラーではボールデッドにならないということ。どこかに当たって痛がっていようが、呆然と立ち尽くしていようが、プレーは継続されるということだ。」 私たち人間は、予測もしないできごと(ここでは”起こり得ること”として考えろ!といっている)や滅多に起こらないことに遭遇すると呆然自若のまま立ち尽くしてしまうことが多い。しかし、そんな時でも時間は流れている。その時にいかに早く自分を取り戻し、その事態に対処できるかが突きつけられているように感じられる作品であった。 角川文庫 「イレギュラー」 (667円+税) |
No74 「ミッドナイト・バス」 伊吹 有喜 2014.5.12 新聞の書評欄で読んで興味を持って買った作品である。期待通りたいへんおもしろかった。このおもしろさというのは、げらげら笑うおもしろさではなく、心にしみる良かったという感想を持った作品という意味である。 深夜バスの運転手として働く主人公の利一。それを取り巻く人間模様を描ききっている。息子、娘、利一が今つきあっている彼女、利一の元妻。時に、利一の深夜バスに乗り人生を見つめ直そうとする。深夜バスは、飛行機や新幹線にはない情緒がある。もちろん、スピードや快適さを考えれば、飛行機や新幹線がいいに決まっている。でも、深夜バスには人生の哀愁がある。人間は人のために何ができるのかを考えさせてくれる作品に仕上がっている。 深夜バスの中で最も車体も古く、椅子も独立してなく、乗客に「はずれ」と言わせてしまう「白鳥バス」。その古いバスの運転手として、利一はそれぞれの人生の乗せて走る。 それにしても志穂(利一の彼女)の運の悪さは読んでいて気の毒になってしまう。そんな志穂に、利一はひどい言葉を投げつけて、別れとなるが・・・。 今日もいろいろな思いを持った人を乗せて深夜バスが走っている。その人たちの幸せを祈りたい気持ちにさせられる本である。 文芸春秋社 「ミッドナイト・バス」 (1800円+税) |
No73 「ワーキング・ホリデー」「ウインター・ホリデー」 坂木 司 2014.5.12 坂木司は、「和菓子のアン」で火がついたが、「青空の卵」などの「ひきこもり探偵」シリーズで、前から読んでいた作家である。今回の、「ワーキング・ホリデー」はこれまでと一風変わった作品に仕上がっている。「和菓子のアン」も「青空の卵」もどちらかといえば日常の謎系ミステリーだが、これは全く違っていて、元ヤンでホストの仕事をしている主人公が、突然現れた小学5年生の息子を前にあたふたする様子を描いた小説である。昔一緒に暮らしたことのある彼女に子どもがいたことも知らなければ、その子が自分の子どもだったことも知らなかった主人公は一念発起してホストをやめ、宅配便の会社に移り、ひと夏をその小学生の息子と共に過ごす。宅配便を始めて遭遇する様々な難題、そして息子と通じ合いそうで通じ合わない思い。それを一夏の経験として、さわやかに描いている。 ときどき元ヤンの時の態度やホスト時代の仕草が出て、にやりとさせられる。これは一夏だけで終わらすのはもったいないと、文庫に落ちるのが待ちきれず、ハードカバーで「ウインター・ホリデー」も買ってしまう。これは「ワーキング・ホリデー」から半年後の冬休みを描いたものだ。 宅配便のドライーバー(といっても、リヤカーもどきを改造したもの)としての活躍と、父子のふれあい、そしてそこに昔の彼女(小学生の母親)やホスト時代の知り合いがからんで、人間模様を描き出す。心温まる作品に仕上がっている。 文春文庫 「ワーキング・ホリデー」 (619円+税) 文芸春秋社 「ウインター・ホリデー」 (1550円+税) |
No72 「てふてふ荘へようこそ」 乾 ルカ 2014.5.12 「てふてふ」とは「蝶々」の旧仮名遣い表記である。私が数学のプリントを作るのは、Texというソフトで、その発音は日本語で「テフ」というのが普通なのである。私がそのソフトのことを「テフ」というと、生徒は「私はその古語単語を知っているよ」という感じで、自慢そうに「蝶々のことだろ」という。 木造アパート「てふてふ荘」には出る。だから、家賃がとても安くて13,000円。しかも、最初の1ヶ月は、家賃なし。朝起きると足元に座っている。主人公の部屋には若い女の子。6号室まであって、居住人とは別にそれぞれの部屋に1人(?)ずついる。慣れれば快適な生活が送れること間違いなし。何しろ家賃は安く、風呂やトイレは管理人さんが丁寧に心を込めて掃除してくれるし、落ち込んだときや行き詰まった時には、励ましてくれたり、飲み会を企画してくれる幽霊もいる。 主人公が生活していくうちに、次第にそれぞれの幽霊が抱えている、現世に残した思いが明らかになり、主人公が幽霊ということを意識しないで本気で関わっていくとき、ビリヤードの球を残して幽霊は消えていく。主人公の心に、決して消えない思い出を刻みつけたまま。 乾ルカの作品はこれで何冊目になるだろうか。今私が一番はまっているのは、乾ルカに間違いない。 角川文庫 「てふてふ荘へようこそ」 (590円+税) |
No71 「小説あります」 門井慶喜 2014.3.5 門井慶喜の作品を初めて読んだ。書店で手に取った本の解説に『「人はなぜ小説を読むのか」という大きな命題に挑むことに」とあった。読書好きの私としては、ぜひ読んでみたい作品であった。本(特に小説)が大好きで、社長の座を投げ打ち、図書館の臨時職員となる兄の老松郁太、兄が投げ出した社長職を引き受け、本はほとんど読まず、読んでも実用書という弟の勇次。この2人が、「人はなぜ小説を読むのか」というテーマでけんか(もちろん言葉の)をするのである。そこで語られた、この筆者なりの結論に、私には納得できた。作品のネタばれになるので、ここでは書かないが、やはり小説を読むには単なる暇つぶし以上のものがあると私には思える。 富士の樹海に消えた作家の徳丸敬生の晩年の謎を追うことで、この作品の深みもまた増している。 人はなぜ、小説を読み続けるのだろうか。電子書籍が発達しても、読書人口が減少の一途をたどっても、紙の本はなくなることはないだろう。そこに一握りの小説愛好家がいる限り。 光文社文庫 「小説あります」 (700円+税) |
No70 「カササギたちの四季」 道尾秀介 2014.3.5 道尾秀介を初めて読んだのは第62回日本推理作家協会賞を受賞した「カラスの親指」だった(No38に書いたので、そちらを参照して欲しい)。伏線の張り方とどんでん返しが気に入って、この人の作品をそれからたくさん読んだ。代表作である「向日葵の咲かない夏」や「背の眼」「龍神の雨」「光媒の花」そして直木賞を受賞した「月と蟹」など。世間の評価は高いが、私には今ひとつピンと来なかった。そして手に取った「カササギたちの四季」。これは、「カラスの親指」を思い出すおもしろさだった。やはり私には、意外性というか、どんでん返しが好きなのかもしれない。 舞台はカササギというリサイクルショップ。登場人物は、店長の華沙々木(かささぎ)と副店長の日暮、そして店に入り浸る中学生の菜美。日常の中に潜む謎を解き明かす華沙々木、それを尊敬のまなざしで見つめる菜美。でもそれは、真実ではなく、日暮が菜美を失望させないように準備した結末で、本当の謎を解くのは日暮。このように、どの謎にも回答を2つ用意して、後からの方が納得の度合いが深い。また、菜美は華沙々木のことを素晴らしい探偵のように持ち上げるが、案外真実を見抜いているような気がする。 また、各短編の最初に出てくる黄豊寺の住職が良い味を出している。4つ目の短編では、この寺が「橘の寺」という名前で登場して、謎解きの舞台になる。決して殺伐な感じはしない、ほのぼのとしたこの短編集は、続編が読みたくなってくるのである。 光文社文庫 「カササギたちの四季」 (580円+税) |
No69 「川あかり」 葉室麟 2014.2.25 葉室麟についてはNo59に「蜩ノ記」を書いた。「蜩ノ記」はその後直木賞をもらい有名になった。その後は精力的に本を出す葉室麟の作品をいくつか手に取ったが、「蜩ノ記」ほどの感動はなかった。 今回文庫で「川あかり」を読んだ。「蜩ノ記」とまではいかないが、なかなか良い作品であった。藩で一番臆病者といわれる伊東七十郎が主人公で、派閥争いの渦中にある家老を討つというもの。剣ではとうていかなわない家老を討つばかりか、藩で一番の使い手といわれる者まで、伊東を切ろうとやってくる。 川止めで待ち続ける伊東の前に一癖も二癖もある連中が現れてくる。この連中とのやりとりが、なかなかおもしろい。伊東は世の中全ての人に誠実に対応しようとするのだが、なかなかそうはならない。いろいろな思惑が絡んで、一気に最終決着になだれ込んでいく。読み出したらなかなかやめられない本である。 双葉文庫 「川あかり」 (695円+税) |
No68 「リミット」 五十嵐貴久 2014.2.24 これも自殺予告の話なので、No66の「ルポ 虐待」と同様、読み始めるのに「うん!」と力を入れた。でも読み始めるとこれもぐいぐい引き込まれた。「ラジオの深夜番組に自殺予告のメールが来た」というのが、この作品のテーマである。周りの忠告にもかかわらず番組でこのメールを取り上げる。「今夜の放送が終わったら自殺する」というメールに、番組の終了という「リミット」をひしひしと感じながら、ラジオの深夜番組は続いていく。 この作品を読んで、二つ思い出したことがある。一つは、島田荘司の書いた「糸ノコとジグザグ」である。クリスマスイブの夜、ラジオ番組で「しを宣言する」という電話がかかってきて詩の朗読がある。それを御手洗潔がこれは自殺予告だと推理して、リスナーと協力して自殺場所を探り当てるという作品である。「毒を売る女」(光文社文庫)の中に納められている好短編である。 もう一つは、私が大学受験時代にもよくラジオの深夜番組を聞いていたなということである。「オールナイトニッポン」と「走れ歌謡曲」であった。ラジオの深夜番組を聞いていた若者は現在よりも多かったはずである。私は田舎で塾も予備校もなく、当時夜中に放送されていた「大学受験ラジオ講座」を聞いて勉強していたのである。そしてそのまま、オールナイトニッポンを聞いていた。 ラジオというのは、テレビと違い声だけなので、いろいろ想像できることが小説と似ているのかもしれない。テレビやインターネットがこれほど市民権を得ても、ラジオはなくなろうとしない。確かに聞く人は減ったかもしれないけど、パソコンやスマートフォンでもRadikoというソフトができて、それで地元のラジオ放送を聞く人もいる(雑音が入らないから良い)。 私は車に乗ると、CDを聞くことはほとんどなく、地元のラジオ局からの放送を聞く。多くの人がメールを寄せてラジオ番組に参加している。これからもラジオはなくなることはないであろう。ラジオの力を改めて知らされた作品であった。 祥伝社文庫 「リミット」 (667円+税) |
No67 「社会を変えるには」 小熊英二 2014.2.15 分厚い本である(517ページ)。決して読みやすい本ではなかったが、なかなかおもしろかった(特に前半)。帯に、「新書大賞2013 第1位」とあり、「広く、深く『デモをする社会』の可能性を探った本」という高橋源一郎氏の推薦文が載っていた。 最初は戦後のこれまでの社会情勢の分析であった。「安保闘争に遅れた世代」である私にとって、知っていることも多かったが、改めて解説されて、「よくわかった」と思うことも多かった。私は1958年生まれで、70年安保はテレビで見た(もちろん60年安保は知らない)。大学に入ったのは1977年で、大学に入ったときには在学中に、80年安保があると思っていたが、とっくに自動延長になっていて、そんな動きは全然なかった。 この本を読んで一番印象に残っているのは、次のようなことである。 フリーターやニートという言葉、そして派遣や非正規雇用という言葉が世間にあふれ出したのは最近(といっても世紀が変わった頃)からだと思っていた。たしかに、言葉が一人歩きし始めたのはそのころかもしれないが、実際は1980年代から徐々に大手製造業は海外に拠点を移し、非正規雇用が増大していた。ただ、90年代半ばまでは大企業男性従業員の雇用が安定していたのと、各種の規制や補助金、公共事業などでその問題が覆い隠されていた。その後、一連の規制緩和と補助金や公共事業の削減により、下支えを失って問題が一気に露呈してきただけだ。 というのを読んで、なるほどと納得したのである。 かつての安保闘争の時と違い、社会が「デモをする」という事に対する反応はずいぶん様変わりした。SNSなどを通じての呼びかけにより、たとえば大飯原発再稼働反対抗議行動などは何万人もの人が集まる。でもこれは、安保反対闘争の時のデモとは全く違うものになっている。 今後この社会はどのように変わっていくのか、いろいろと考えさせてくれる本であった。 講談社現代新書 「社会を変えるには」 (1300円+税) |
No66 「ルポ 虐待」 杉山 春 2014.2.14 小さな子どもが死ぬ話だから、読み始めるのが少々気が重かった。しかし、読み始めるとどんどん読み進み、非常に興味深い本であった。ルポだけに迫力がある。幼児を放置して、死に至らせるというニュースは新聞か何かで見た気がする。しかしその背景などわからないまま、「かわいそうに」という思いを抱き、そしてすぐに日常に紛れ、忘れ去っていく。 筆者は事件を起こした当人を始め、家族、知り合いなどさまざまな取材を通して、なぜこの事件が起こったのかという核心に迫ろうとしていく。私がそこから見えたのは、30年の懲役が果たして妥当なのかという思いである。確かに幼児2人を死に至らせた責任はあまりにも重い。しかし、これを読む前よりは読んだ今の方が、加害者の心情に迫れたのは確かである。 「人は見ようと思うものを見る」 私はこの本を読んで上の言葉を思い出した。これはガイウス・ユリウス・カエサルの言葉として知られている。これをもじっていえば、この加害者は「考えたくないものは考えない」というか「認識したくないことは認識しない」ということがあったのではないだろうか。それは決して意識的にしたというのではない。それなら2人の子どもが死んでいたことを確認したあとも、彼とドライブしてホテルに泊まったということも、もちろん2人の命を預かる母親として許せることではないと思うが、「それならこの事件の本質がわかる」。 今後、こういった事件は増えていくのかもしれないが、それに対して、私たちはあまりにも無力である。 ちくま新書 「ルポ 虐待」 (840円+税) |
No65 「夏光(ナツヒカリ」 乾 ルカ 2014.2.2 乾ルカは「メグル」を読んで、一度でファンになった。そこで2冊目として読んだのがこの「夏光」である。 2部構成の連作短編集になっていて、第1部が「め・くち・みみ」で第2部が「は・みみ・はな」である。気に入ったのが第1部の最初の「め」である「夏光」と、第2部の最初の「は」である「は」であった。 前作の「メグル」でもそうであったが、人知を越えた力を書く乾ルカは、この作品集でもその持てる力を遺憾なく発揮している。「夏光」は広島の原爆投下をテーマにしたあまたのこれまでの作品群とは一風変わった作品に仕上がっている。 そして一番気に入った「は」は、「これはもう、お読みください」というしかない。昨年私は240冊の本を読んだがこれと、この下に書いている「地の底のヤマ」が一二を争う作品であった。 食の話である。私は何を読んでも、大して現実生活には影響を及ぼさないのであるが、さすがの鍋好きの私でも、次に鍋を食べるときには、少し躊躇したほどである。もちろん鍋料理は大好きなので、かまわずパクパク食べたが、それほどまでの作品だったのである。かわいい金魚の話をこのような恐ろしい話に作り上げる乾ルカの作品をこれからも読んでいきたい。 文春文庫 「夏光」 (581円+税) |
No64 「地の底のヤマ」 西村 健 2013.1.3 2段組860ページのボリュームのあるこの本を手にして、なかなか読み始めるのに踏ん切りがつかなかった。年末から正月にかけて少々時間がとれたので読み始めるとぐいぐい引き込まれていった。さすがにこの厚さで短期間に第6刷りまで印刷されたのは納得できるできであった。 一人の警察官の九州三池における人生が、大きく4部に分かれ、10年、20年の間隔をもって描かれていた。それぞれの部分で事件が起こり解決をしていくのだが、全体を通して「父親はだれに殺されたのか」ということがずっと通奏低音のように流れ続けて最終的には一点に向けて収斂していくというものであった。 日本の労働史上最大と闘いとなった三井三池闘争を描きながら、そこにうごめくさまざまな人間の思いを織り交ぜながら、主人公の鉄男の揺れ動く心情を描いたこの作品は、私自身知らなかったことをわからせてくれると同時に、読者自身の見ようとしなかった内面までもえぐり出そうとした作品であるように感じる。 講談社 「地の底のヤマ」 (2500円+税) |
No63 「遅読のすすめ」 山村 修 2012.8.27 私は確かに人よりたくさん本を読むと思う。ある時「高橋さんはたくさん本を読むけど、速読を身につけているのか?」と聞かれたことがある。私は「とんでもない、私は量を稼ぐために本を読むことはありません。むしろ気に入った本ならば『終わらないでくれ』と祈りながらじっくり読んで、それでも最後のページをめっくってしまうことのやるせなさといったらありません。表現のうまさや内容が心にしみる場面などは立ち止まって何度か読み直すし、実際気に入ったフレーズはノートを作って書き留めています。これがもう328個になりました。だから、速読とは無縁です。」と答えた。 そうしたときに出会ったのがこの本である。この本を読んでいて、納得できる部分が数多くあった。 本は何のために読むのか。それは人それぞれだと思う。人によっては勉強や仕事で仕方なく読む、読まなければならない、という人もいるだろう。でも私は、本は楽しみのために読むのである。だから早く読む必要はないのである。 他にも私はこだわりがある。売れる本(いわゆるベストセラー)をどう見るかということである。出版不況といわれ、さらにはデジタルブックの普及で本が売れなくなっている。しかし、出版点数そのものは伸び続けるなかで、特定の本(ベストセラー)が飛ぶように売れる。これはどう考えればよいのだろうか。 私は、自分に好きなものが読みたい。 ベストセラーであっても自分にとっては「ハズレ」のこともあるし(先年とても話題になった本を、私は読み終えた瞬間に「金返せ」と言って放り出した)、もちろんその逆もある。 昨今の世間一般の本の読み方は、マスコミが取り上げたり、映画化されて話題になった本に飛びつき、書評を読み、妙に納得するという風潮にないだろうか。もちろん書評が的確に自分の思いを代弁してくれていることもあるだろうが、そうでない場合も必ずあるに違いない(私は「バカの壁」がはやったとき、読んで難しくてわからないと感じ、世間の人はなんてみんな頭がいいのだろうと感心した←ただ私が「バカ」なだけ?)。 私自身も書評は読むし、それで本を買うこともある。ただ基本的には「当たり」を引きたいだけなのだ。玉石混淆の世界にあってこそ玉は光り輝く。だから、もし「石」を引いてしまうと、「玉」を見つけるために次の本のページをめくる。しかし、「石」も「玉」を輝かせるためになくてはならないアイテムなのだ。 そしてもう一つ欲を言えば、全然話題になってない本を読んで気に入り、それがだんだん人気が出てきてベストセラーになったときの喜びは、他ではなかなか味わえない。もちろんそんなことは滅多にないことであるが、ベストセラーの初版本を持っているというということは、なかなか他人に言っても理解してもらえないことであるが、持っている本人にとっては凄いことなのである。自分がこの作家を育ててやったという気にさえなるのである(←もちろんおおいなる錯覚) そんな私でも、他の人の本好きにたまげたことがある。それは同僚のHさんである。それを感じたのは職場の忘年会の時である。みんな開放的な気分で盛り上がっているときに、たまたまHさんとトイレで出会った。そこでHさんは突然内ポケットから文庫本を取り出した。最近Hさんが読んでいる時代小説である。そこでHさんは「わしは本当は今すぐトイレの個室にこもってこの本の続きを読みたいのを一生懸命我慢してるのだ」と言うのだ。私も確かに本好きだが、そこまで考えたことはなかったので、改めてHさんの顔を見つめた。好きということは果てがないのだな、と思った瞬間であった。 ちくま文庫 「遅読のすすめ」 (780円+税) |
No62 「銃・病原菌・鉄」 ジャレド・ダイアモンド 2012.8.19 この本は本屋に平積みにしてあった。なんだか聞いたことがある題名だと思ったら、朝日新聞が2010年に企画した「ゼロ年代の50冊」でベスト1に選ばれた作品であった。 もちろん、朝日新聞が選んだから優れた本というわけでなく、内容が斬新だった。歴史を、これまでと異なった角度で切っていた。つまり、「なぜヨーロッパ人がアメリカ大陸を侵略できたのか、逆にアメリカ原住民がヨーロッパを侵略できなかったのはなぜか」という問いから始まっている。 これまでだと「人種や民族の差異」によるものであると簡単に片づけられてきた。しかし、ダイアモンドは「そうではないそれは居住環境の差異によるもので、民族間の生物学的な差異によるものではない」と述べている。歴史に「もし」はないが、「もし、更新世後期にオーストラリア先住民とユーラシア大陸の先住民がそれぞれの居住地域を入れ替えていれば、現代のユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、そしてオーストラリア大陸の人口の大半はオーストラリア先住民の子孫で占められているだろうし、」という記述からも伺える。 ユーラシア大陸が東西に広がっているのに対して、アメリカ大陸やアフリカ大陸は南北に長く延びているということも要因の一つに数えている。また、アメリカ大陸をヨーロッパ人がやすやすと征服できたのは、病原菌が果たした役割が大きいとも述べている。これまで少なくとも私には、病原菌という発想はなかった。この病原菌が猛威をふるったため、銃よりももっと効果的に征服できたとダイアモンドは述べている。ここらあたり詳しくはこの本を手にとって、自分で確かめて欲しいのである。 最後に、このような歴史学については文系の学問と考えてきた。この本の最後で、ダイアモンドは物事を科学的にとらえることがもっとも大切だと述べている。そして訳者のあとがきのなかで、ダイアモンド博士は医学部の教授で進化生物学者であることが明かされる。だからこそ、こんな大胆な発想から物事を見ていることに納得できた。 上下合わせて800ページを超える大著だが、内容は充実したものであり、ぜひとも手にとって欲しい本である。 草思社文庫 「銃・病原菌・鉄(上・下)」 (各900円+税) |
No61 「Rのつく月には気をつけよう」 石持浅海 2012.7.15 私の知り合いに、「なま牡蠣(酢かき)をどんぶり一杯食べてみたい」という希望を持つ人がいる。店で食べればなま牡蠣は高いものでは1つ500円とか、せいぜい器に3,4つ入っているだけで、どんぶり一杯のなま牡蠣を店で食べることはできない(もちろんできるが、高くなりすぎ)。それならスーパーで買ってきて(1000円も買えば十分)食べればいいのだが、なかなか踏ん切りが付かないらしい。でも世の中には同じことを考える人がいるようで、表題にある「Rのつく月には気をつけよう」にそれと同じことが書いてあった。 この石持浅海は2002年に「アイルランドの薔薇」でデビューしている。私はこの作品を2004年に読んでその作品の持つ独特の雰囲気がとても気に入ったのではあるが、次の作品を手に取るまで時間がかかった(10年近くも前のことだが、この作品をどこの本屋のどの棚で見つけて買ったかまで覚えている)。 次の作品「月の扉」を読んだのはずいぶんたってからだ。その作品を手に取ったときには、「アイルランドの薔薇」の作者とは同じと思わなかった。これも優れた作品で、私は石持浅海のファンとなり、石持浅海の本をずいぶん読んだ。今回の本は、表紙にたくさんの酒の瓶が描かれた少し地味な本であった。これがきわめておもしろい本だった。 『Rのつく月』とあれば、「ああ牡蠣のことだな」と気がつく。「牡蠣を食べるのはRのつく月にしろ」と言われるのは有名な話だからである。これは安楽椅子もので、食事をしながら、招かれたゲストの日常の謎を解き明かすという話である。私はかつてアシモフの書いた「黒後家蜘蛛会」(全5冊)を読みふけったものである。この手の作品としては、最近では『謎解きはディナーのあとで』(東川篤哉)が有名である。 この本には7つの短編が7種類の酒と7種類のつまみと共に出てくる。その料理や酒も捨てがたいが、それ以上に謎解きは一級品である。時には、その人の人生も変える謎を解くことで、多くの場合ゲストに幸せをもたらす(もちろんそうでない場合もある)。長江は謎の提供者に暖かいまなざしを注ぎながら謎を解いていく。当然その前に伏線も張られているが、謎が解かれたときの意外性は目から鱗が落ちる例えが当てはまる。私はこうした作品をまだまだ読みたい。 詳伝社文庫 「Rのつく月には気をつけよう」 (571円+税) |
No60 「ピエタ」 大島真寿美 2012.7.15 今年の本屋大賞第3位の作品で、新聞の書評で読んで買うことにした。読んでみて、すばらしい作品だということがわかった。大賞に選ばれた「舟を編む」は大賞受賞前に読んでいたこともあり、受賞は当然の結果に思えたが、これを読んで、世の中には私が読んでなくてすばらしい本がたくさんあることを改めて認識した。 決して派手な作品ではない。私はこれを読んで、大学時代に見た映画「木靴の樹」を思い出した。調べてみると1978年の作品で今から30年以上も前のイタリアで作られた映画である。北イタリアの貧しい小作の農夫が地主の木を無断で切り、息子に木靴を作ってやる。やがて樹を切ったことが発覚して地主から追い出されるだけのことを、3時間を超える作品に仕上げた映画で、日常の生活を淡々と描き、決して派手な場面もないのだが、不思議と心に残る作品だった。最後にバッハのオルガン曲(演奏 フェルナンド・ジェルマーニ)が荘厳と流れる中、クレジット(タイトルロール)が流れていくのを映画館の椅子に座ったまま呆然と眺めていたのを昨日のことのように思い出す(あれから34年もたってしまった) 思い出話はこれくらいにする。この作品「ピエタ」はヴェネツィアで「四季」を作曲したヴィヴァルディを描いている。といっても、ヴィヴァルディは直接出てこず、生前のヴィヴァルディと親交のあった人々の思い、行動を描いているだけである。それが不思議と心に残る。他の人に対する暖かい思いやりを忘れないで それぞれが精一杯自分の生を生きているからだと思える。NHK FMでラジオドラマ化して放送されたそうだが、これはラジオ向きの作品なのかもしれない。 ポプラ社 「ピエタ」 (1500円+税) |
No59 「蜩ノ記」 葉室麟 2011.11.20 この本は本屋さんに勧められて読んだ葉室麟の3冊目となる。これまで「刀伊入寇」「星火瞬く」を読んだ。それなりのできばえであったが、感想をこのホームページに書こうとは思わなかった。そしてこれが葉室麟の3冊目で最高傑作ではないかと思う。かつて、乙川優三郎を読んでいて、「むこうだんばら亭」を読んだとき、「化けたな」と思ったが、それと同じ思いをこの「蜩ノ記」で感じた。 主人公壇野庄三郎は親しい友人との行き違いが刃傷沙汰に発展したが、辛くも切腹を免れ、幽閉中の戸田秋谷のもとにある使命を持って遣わされた。秋谷は7年前に前藩主の側室との不義密通を犯した廉で家譜編纂と十年後の切腹を命じられ、それから七年が過ぎていた。 読み進むうちに明らかになっていく壇野と刃傷に及んだ相手の信吾の思い。そして、秋谷の七年前の出来事が、現在の村のありようと絡めて物語は進んでいく。そして秋谷を救おうと壇野は力を尽くす。 残された日は一日一日と少なくなっていくが、 この物語の中で光るのは秋谷の清らかさ。この清冽な日々を誰もが慈しみ、穏やかな山村の情景がそれを彩る。 葉室麟のこれからが楽しみである。 祥伝社 「蜩ノ記」 (1600円+税) |
No58 「働かないアリに意義がある」 長谷川英祐 2011.11.20 以前「アリの8割は働かず、2割のアリが一生懸命働く。この働かない8割のアリだけを集めて集団を作るとそのうちの2割は働くようになり、一生懸命働く2割のアリだけを集めて集団を作るとやはりその8割は働かないようになる。」という話を聞いたことがある。これを「8:2」の法則というらしい。どうしてこんな事が起こるかわからなかったけど、この本を読んで初めてわかった。それは、アリの閾値(しきいち)がいろいろあるということであった。 人間もそうだけど、アリにも個性があって、例えば散らかっている部屋を見たとき、どのくらいまで許せるかという限界がそれぞれ個性の差としてあり、その差を閾値が高いとか低いとかで表現する。少しでも汚れるとすぐにきれいにしようとするアリがいるかと思えば、相当汚れても平気なアリもいる。働かないアリはさぼろうとしているのではなく、ただ単に出番がないというだけなのだ。だから、働かないアリばかり集めても、部屋が汚れてくれば働くアリは当然出現するわけだし、きれい好きのアリばかり集めても、その中にも個性があって、何割かが働けばきれいになり出番がなくなるアリが存在するわけである。 こうした個性の違いが、種が生き残っていくために必要なことだと、確か内田樹の文章で読んだ気がする。人間世界でいつも遅刻してくる人がある。これは、性格としてとらえられるけど(それは決して間違っていないけど)種全体が同じ行動を取れば、何か非常事態が起こったときに、全滅してしまう。だから、集団の中には一定数多くの人とは違った行動を取る人が必要なのだ、といった文章だったような気がする。そしてそれは、よく言われるように進化の過程でそうなった、のではない。そういう特性を持った種が生き残って、現在に存在しているのだ。 この本の中にも個性の差が集団に必要かどうかといった実験がある(といっても、コンピューターによる実験である)。反応閾値を揃えると確かに単位時間あたりに処理できる仕事量は増える。しかし、閾値を揃えると、コロニーが死滅する可能性も上がる。それは、閾値を揃えると、全員が一時に働き、全員が一時に疲れて動けなくなってしまう。しかし、閾値がバラバラだと働いていたものが疲労して働けなくなると、「今まで働けなかった」個体(反応閾値が異なる個体)が働きだす。それが疲れてくると、今度は休息していた個体が働きだし、コロニーの全滅を防ぐというわけだ。 この部分に印象に残ることが書いてある。「働かないアリとは、(中略)社会の利益にただ乗りし、自分だけの利益を追求する裏切り者ではなく、「働きたいのに働けない」存在であるということです。本当は有能なのに、先を越されてしまうため活躍できない、そんな不器用な人間が世界消滅の危機を救う。(中略)これが「働かない働きアリ」が存在する理由だと考えています。」 このことは、「世の中に存在するものには、無意味に見えても存在意義がある」ということを示しているのかもしれない。 メディアファクトリー 「働かないアリに意義がある」 (740円+税) |
No57 「この世界の片隅に」 こうの史代 2011.9.21 こうの史代さんの本は、広島平和記念資料館に行ったときに、友人に勧められて買った「夕凪の街 桜の国」が最初だった。これは後に映画にもなったので、劇画バージョンだけでなく文章で書かれた本も買い、映画も見た。 それが記憶にあり、「この世界の片隅に」の書評をみたときにすぐに買う気になった。これは広島ではなく呉を舞台にした話だった。戦時中、主人公のすずは呉に嫁いでいく。当時の廣島と同じく呉も軍都(造船の街)として存在していた。そんな街に絵を描くのが好きで、天然が入っているすずがお嫁に行く。でも時代は戦時中で、物のない時代。自由に絵を描くこともままならない。そんな不自由な中で、愛をはぐくみながら戦争中の生活が続いていく。義理の姉に厳しいことを言われながら、ときどき優しさが時々かいま見えるといった生活を続けながら、8月6日、そして8月15日が近づいてくる。 そしてすずの運命を変える出来事が起こる。 戦争が終わって、すずはどう生きていくのか。さまざまな規制がなくなったとき、すずはこれまで以上にのびのびと生きていくに違いない。そうしたすずの姿そのものが、私たちに希望を抱かせてくれるのは間違いないと思う。 双葉社 「この世界の片隅に(上中下)」 (各648円+税) |
No56 「安政五年の大脱走」 五十嵐貴久 2011.9.18 この本を読んだときに、五十嵐貴之という名前は知らなかった。本屋で平積みしてあって、帯に「ツイッターで話題沸騰中」とあったので読んでみようかという気になった。安政五年(1858年)といえばもう江戸時代も末期、安政の大獄がこの年に始まり、2年後の安政七年、桜田門外の変が起こり、井伊直弼が暗殺される。また、安政5年には江戸でコレラがはやり、死者10万人とも言われている。 全くの架空の話だが、登場するのは井伊直弼。それに対抗するのは南津和野藩士51人と南津和野藩の姫・美雪。 井伊直弼の陰謀により、姫と藩士は山の頂上の建物に幽閉される。藩士は姫を助け出して、脱出しなければならない。しかし、山の上で周りは絶壁。井伊直弼の手のものがじゃまをする中、さまざまな工夫をしながら脱出を計ろうとする藩士。その中でさまざまな葛藤が渦巻く。これが非常におもしろかった。 期限を1ヶ月に切られ、絶体絶命のピンチからいかに脱出するのか。最後までワクワクして読み終えることができた。 これをきっかけに五十嵐貴久の作品を読みまくった。デビュー作「リカ」は第2回ホラーサスペンス大賞を受賞したホラー小説。「交渉人」は病院に人質を取って立てこもった犯人と警察との交渉経過を描くサスペンス。この「安政5年の大脱走」がいわゆる時代小説。「1985年の奇跡」は高校野球を通して描く青春小説。「Fake」はNo38で書いた「カラスの親指」を思い出すコンゲーム。どれを読んでも最後まで引きつけられ、どんでん返しありのすばらしい小説ばかり。こんなさまざまな分野を書き、そこそこの水準を維持する作家をこれまで知らなかったなんて・・・。今後も好きな作家ばかりでなく、初めての作家の作品も手に取ってみなければわからないと気づかせてくれた作品であった。 幻冬社 「安政五年の大脱走」 (686円+税) |
No55 「夏のくじら」 大崎梢 2011.9.18 「本邦初(!?)よさこい祭り小説!」という帯の文句に惹かれて手に取ったこの「夏のくじら」。筆者はNo46の「配達あかずきん」を書いた大崎梢だ。「配達あかずきん」をはじめとして、「晩夏に捧ぐ」「サイン会はいかが?」など日常の謎シリーズで私が好きな作家の一人だが、今回のこの作品はそんな推理ものとは関係なく、青春の燃えるような一夏の経験を描いたものだった。 私がこの作品に没頭したのは、やはり主人公が他県出身で高知大学に在学していて、暑い暑い高知の夏によさこい祭りと出会ったという私と同じ経験をしていることに大きく関係していると思う。もちろん主人公の設定は私より20年近く後の時代で、よさこい祭りが今のようにメジャーになってからのことであるし、私といえばよさこい祭りは見に行ったけど、実際にはその輪の中に飛び込んでいったのではないという大きな違いはあるのだけど・・・・。 どこか熱中できるものを持たない主人公は、大学に入っても、どのように過ごしていいかわからないまま鬱々と日々を過ごしていた。しかし、よさこい祭りに出会いその企画の段階から取り組んでいくことで、青春のの一時期しか体験できないきらめく日々を手に入れる。もちろん途中で踊りの下手さからやめようと思ったり、自分で金を出して参加しながら、得られるものは名誉(入賞)だけという価値観に疑問を抱いたりしながらもだんだんとこのよさこい祭りにのめり込んでいく。 そして、本番ではまといを持って列の先頭で踊ることを許され、4年前によさこい祭りで出会った女性と再会を・・・・・。 思い出したことは「花メダル」のことだ。私も、踊っている人を見て花メダルを付けている人と付けていない人を見て、詳しい人に「あれは何か」と聞いた覚えがある。そうすると「踊りがうまい人がもらえるメダルだ」と聞いて納得した。この小道具がこの小説ではうまく使われている。 今にして思えば、4年間の大学生生活で一度ぐらいはどこかの連に参加して踊ってみたかったと痛切に後悔する。でも35年も前のことで、もうどうしようもない。せめて、もう一度よさこい祭りに出かけていき、その熱気を肌身で感じてみたい。 なおこの作品は、そういった思い入れもあって、今年になってこれまで読んだ200冊のうちのNo1だと思う。 文藝春秋社 「夏のくじら」 (667円+税) |
No54 「峠うどん物語」 重松清 2011.9.18 新聞広告で見て、題と紹介文に惹かれて購入した本。「長寿庵」という峠のうどん屋が、目の前にでっかい市営斎場が出来たために「峠うどん」という名前に変更せざるを得なかった。その斎場に出入りする人の姿を見つめるうどん屋の老夫婦と高校生の孫娘。その高校生の目を通して書かれたのがこの作品である。 通夜や葬式が終わってくぐるうどんやののれん。特に若い人や小さな子どもを残したまま亡くなった人の通夜や葬式では、参列した人はやりきれない気持ちを携えたままうどん屋に入り、一杯の温かいうどんでほっと一息つく。そこで出会うのは寡黙でうどんの出来に全身全霊を傾けるおじいちゃんと明るくおしゃべり好きで面倒見のいいおばあちゃん、そしてときどき学校からの帰りにアルバイトで通ってくる主人公。そこでは人の生き死にが語られ、思いやりややるせなさが語られる。 以前「真夜中のパン屋さん (ポプラ文庫)」( 大沼紀子)を読んだとき、むしょうにパンが食べたくなって、当分パンを買って食べていたけど、この作品を読んだらむしょうに、このうどんが食べたくなった。ただあのときと違って、とにかくパンが食べたくなったのと違って、今回はこの「峠うどん」が食べてみたくなった。お腹だけでなく人の心まで暖めてくれる峠うどんが本当にどこかにあるような気がしてきた。 講談社 「峠うどん物語(上下)」 (各1500円+税) |
No53 「コミュニケーション不全症候群」 中島 梓 2011.8.21 中島梓(栗本薫)が亡くなり、もうこれで新しい本が書かれることもないのかと少し寂しい気になった。私が大学に入った年に「文学の輪郭」(中島梓名義)で群像新人文学賞評論部門を受賞した。これだけなら有望な新人が出てきたかと思うだけだが、 翌年「ぼくらの時代」(栗本薫名義)で江戸川乱歩賞を受賞した。これにはびっくりした。評論で現在の文学界を切り、その返す刀で「本とはこのように書くのですよ」と差し出したものが江戸川乱歩賞を取ったのだ。賞を取ったから凄いのではなくて、私も実際に「ぼくらの時代」を読んで、さわやかな青春像を描いた作品が気に入り、当分この人の新刊が出るたびに読みふけった。 ガンで長くないのは知ってから、まだ読んでない伊集院大介シリーズを10冊ほど手に入れて読んだ(何冊かは絶版で読めなかった)。グイン・サーガをまだ読んでないので、読む気になれば150冊ぐらい読めるのであるが、これはさすがに手を出す気にならない。 この「コミュニケーション不全症候群」は追悼として読んでみようとした1冊である。「おタクとダイエットは同じコミュニケーション不全症候群の表出形態である」というこれまで誰も唱えたことのない持論を堂々と展開している。 この中で一番心に残ったのは次のようなことである。現代のある人々(これは最近特に多くなってきているのかもしれない)は、親しくないというか話をしたことのない人間は、「いないもの」として足を踏んだり、押しのけたりして歩く。これは、悪意とか敵意とかでそうした行動をとるのではなくて、『全く自分の回りに人間が、大小さまざまの人間がいるということが、見えてない、意識されてない、全く問題外なのであった。』つまり認識されてないのである。これが、話をするようになり親しくなってくると、足を踏んだり突き当たったりすることがなくなる。その人の中で認識されてくるのである。 中島は『気が付いていて、つまり悪意、敵意によって破壊される方が、まだたいへん無邪気な無自覚によってぼろぼろの肉塊にされるよりマシだと思うのだがどうだろうか。』と書いている。 ここに、現代のコミュニケーション不全が顕在化しているように思う。他にも、おタクについての分析やなぜ安易にダイエットに走ってしまうのかといった分析が事細かく書かれている。こういった誰もがなかなか考えつかないような分析ができる中島梓を失ったことは残念でならない。 筑摩書房 「コミュニケーション不全症候群」 (1500円+税) |
No52 「天皇の逝く国で」 ノーマ・フィールド(大島かおり訳) 2011.8.21 この本を読む前に「ドキュメント 昭和が終わった日」(佐野 眞一著)を読んでいた。これは元号が「昭和」から「平成」に変わる前後の一連の動きをインタビューなどを通じて克明に拾い集め、それをまとめたものだった。その内容は皇室・政府を中心にその動きをまとめていた。そのあとこの 「天皇の逝く国で」を手に取った。何かの本を読んでいて( 「昭和が終わった日」ではなかったと思う)この本が引いてあったか、または書評かブック案内で読んだのかもしれない。注文で取り寄せて、届いてから「少し高いな」と思った。 この本は 「昭和が終わった日」と違い、皇室や政府と離れたところから間接的に昭和天皇を描き出す努力をしていた。大きく3部に分かれ、1部では国体のソフトボール会場で日の丸を焼いた知花昌一さんのことを。2部では自衛官の靖国神社合祀取り消しを求めた中谷康子さんのことを。そして3部では昭和天皇が病床にあった時期に、昭和天皇の戦争責任を述べた本島等長崎市長のことを書いている。そして、前後には割と長いプロローグ、エピローグで自分の家族のことを書き綴っている。 どの件も「知っている」という認識はあったが、改めてじっくりと読んでみると自分の知らないことがたくさんあった。例えば本島市長は発言内容などから彼はもともと革新系だと考えていたが、元自民党県連の幹事長で当時は顧問だったこととか、「長崎日の丸の会」の会長であったことなど、初めて知ることも多かった。 なかなか読み応えのある本だったが、これが普通のドキュメンタリーと異なっているのは、随所に自分生い立ち、そして自分の家族のことを絡ませながら自分の生き様に引きつけて描いていることではないだろうか。著者は父をアメリカ人、母を日本人として東京で生まれた。そして現在はシカゴ大学の教授をしている。その彼女から見た日本人のありよう、また、私たちが当然と思うことに疑問を持ち、それを掘り下げていく粘り強さなどに引き込まれたのかもしれない。 ところどころ表現が「?」と思うところも含めて(これは翻訳のせいかもしれないが)、20年近く前に出版されたこの本を興味深く読み終えることができた。 みすず書房 「天皇の逝く国で」(2800円+税) |
No51 「観覧車」「回転木馬」 柴田よしき 2011.2.20 「待ち続ける女」という演歌の中でしか出てこないような出来事を描いたこの2冊の作品。柴田よしきがデビューして7年間かけて完成した「観覧車」、それからさらに12年かけて「回転木馬」が完成した。ある日突然失踪した夫を捜し求める下澤唯が主人公である。仕事(私立探偵)も日常生活も断ち切ったようにしていなくなった夫を待つ唯は、「帰ったときに居場所がなくなるから」という理由から探偵事務所を引き継ぐ。慣れない仕事に行き詰まりながらも、懸命に世間の荒波に立ち向かっていく。その仕事で出会う謎を一つひとつ解きながらも、夫を捜すということを片時も忘れない。関わった仕事から、夫を見つける手がかりの断片が少しずつはがれ落ちて、次第に像を結んでいく。 横溝正史賞を受賞して書かれた第1作がこの観覧車(連作短編の第1作)であった。それから唯は夫を待ち続け、読者はこの小説の完成を待ち続けた(といっても、私はこの二冊が文庫に落ちてから初めて知って、2冊まとめて買った)。 2冊目の「回転木馬」では、1作目よりも夫を捜すことに重点が置かれ、次第に夫に肉薄していく。それでも周りを囲む人々が、(善意ながらも)じゃまをしてなかなかたどり着くことができない。 最後には・・・・(ここは実際に読んでください)。 この作品の気に入ったところは、こういう作品だと、とかく「人捜し」でストーリーが進んでいくのだけど、連作短編になっていて、唯が日常の探偵事務所の仕事で出くわす謎解きがおもしろかった。そういう意味では、「回転木馬」よりも「観覧車」の方が私にフィットしていた。特に題名となっている「観覧車」の作品はなぜか心に残るものとなった。 これまで柴田よしきの作品は15冊くらいは読んできたが、わりと私の感性にマッチしている。最近では「窓際の死神(アンクー)」(新潮文庫)がなかなかおもしろかった。 詳伝社 「観覧車」(648円+税) 「回転木馬」(695円+税) |
No50 「鹿男あをによし」 万城目 学 2010.11.22 本屋で「お薦めの本」として紹介してあったが、その時はなぜか買う気にならなかった。あとから気になり、別の本屋で探したが、なぜか見つけることができなかった(もっとも、題名もうろ覚え、作者の名前なんか読めない、という体たらくだったので、無理はない)。その後たまたま図書館で見つけることができた。本屋で見たのは文庫本だったが、図書館の本は当然単行本だった。 「あおによし奈良(なら)の都は咲(さ)く花の にほふがごとく今盛(ざか)りなり」 という有名な歌をモチーフに(といっても、その歌は本のカバーの裏に書いてあっただけ)奈良の私学の女子校に臨時の教員として赴いた主人公と、人間の言葉を話せる鹿とのやりとりを描いた作品である。読んでいる分はおもしろいが、主人公にとってはとてもそんな気分ではない。着いたばかりの奈良で理不尽に鹿に命令され、それが達成できない(これは決して主人公のせいではない)ばかりに、ひどい目に遭ってしまう。夏目漱石の「坊っちゃん」を下敷きに、けど全く違った設定、内容で書かれたこの作品はとてもおもしろく、最後の主人公の女子生徒に対する思いやりが、心に残るものとなっていた。 主人公の被った災難とは、鏡に映したときに自分の顔がだんだん鹿に近づいていくというものだが、これが他人からはふつうの顔に見えてしまうというところに主人公の苦悩もある。つまり、自分の抱えている不幸を他人は理解しようがないのだ。ただ、作品中に出てくる、昔のフィルムを使ったカメラで撮れば普通に写真に写るのに、デジタルカメラで写せば鹿顔で写ってしまう。鹿が科学進歩について行けてないという設定がおかしかった。 この主人公のその後が気になる。この人の別の本を読めば、書いてあるのかな? 幻冬舎 「鹿男あをによし」 1500円+税) |
No49 「お父やんとオジさん」 伊集院 静 2010.11.22 私たちにとって戦争といえばベトナム戦争である。岩国や沖縄から米軍の飛行機が飛び立ち、「戦争を知らない子供たち」を歌い、ベ平連が話題になっていた。その前に朝鮮戦争があったことは知識としては知っていた。いや、知っていたつもりでいた。アメリカとソビエトがそれぞれバックにつき、南北に分かれた朝鮮が戦い、日本は朝鮮戦争の特需で経済復興を成し遂げたという程度の知識だ。私はこの本を読んで初めて朝鮮戦争の片鱗がつかめた気がした。 そして、そういった歴史的事実だけでなく、ここには人間が書かれているように思える。絶望的状況におかれたオジさんと「何とかしてみよう」と宣言し、それを実行に移すお父やんの姿に、主人公の少年は胸を張る。 そしてここで印象に残る姿に書かれているのはオジさんの両親の姿だ。体の調子が悪いにもかかわらず、身を挺して息子をかばい、自分たちのことはあきらめても最後まで息子のことを信じてその脱出に力を尽くす。この両親の尽力があったからこそ、お父やんの活躍が実を結ぶのだと思う。 この本を読もうと思ったのは、この前に伊集院静の「受け月」という本を図書館で借りて読んだからだ。短編集で野球の事を通しての父親との関係を、いろんな角度からスパッと鋭い切り口で書かれているので、もっと読んでみたくなり、今話題になっているこの本を手にした。期待を裏切られるものではなく、この伊集院静は私にとって注目の人となった。 講談社 「お父やんとオジさん」 1900円+税) |
No48 「天地明察」 冲方丁(うぶかた とう) 2010.6.19 今年度の本屋大賞第1位の作品である。この本屋大賞が始まって早いもので今年で7回目である。第1回の「博士の愛した数式」は映画化もされ(滅多に映画を見ない私も見た)、すばらしい作品だったが、それ以降の大賞受賞作は私にはしっくりこなかった(半分しか読んでないけど)。2005年の「夜のピクニック」は読んだ。場面設定が私好みで「これだ」と思い入れ深く、読んだが、私にはしっくりこなかった。そのせいか、それから3年間の大賞受賞作「東京タワー」「一瞬の風になれ」「コールデンスランバー」は読んでいない。ただ、2007年の第2位の「夜は短し 歩けよ乙女」は読んだ。しかし、これも私好みでなかった。そして昨年の「告白」は大賞を受賞する前に読んだ。ハードカバーで70万部、文庫本で100万部(2010年6月中旬現在)を記録した本だ。私にとっては近年まれに見る「私とは合わない本」だった。まあ、かつて「この本がよかった」のNo9で、当時あれほど売れていた「バカの壁」を「書いてあることがよくわからない」と書いた私のことだから、世間の人と感じ方がずいぶん違うというのは自覚している。 ただ昨年第2となった「のぼうの城」は良かった。詳しくはNo31を見てね。 そこで今年の「天地明察」だ。時代小説と銘打ってあるから、最近時代小説ばかり読んでいる私としては、読まないわけにはいかない。しかし、この作者は聞いたこともないし、第一名前の読み方さえわからない。最初は「おき ほうちょう」と読むのかと思った(正しくは「うぶかた とう」)。これまで書いているものも奥付けを読むかぎり、スニーカー大賞とかゲーム・コミック原作、アニメ制作、日本SF大賞受賞など私とあまり縁のない分野での活躍が目立つ。 しかし、読み始めてのめり込んでいった。破天荒な主人公の行動、設定された主人公の仕事(江戸城で碁を打つ)、数学者関孝和との出会い、天体観測で全国を回るそのワクワク感(以前井上ひさしの「四千万歩の男」を読んだのを思い出した。あの続きが読みたかったけど、井上ひさしさんは今年四月にお亡くなりになりました。合掌)、そして最終的に日本の暦を替えていこうとするその不屈の魂。 文句なしに今年の本屋大賞はいい作品を選んでくれた。そのおかげで、私はこの本と巡り合うことができた。まだ読んでいない人は幸せです。これからこの楽しみが味わえるのですから。 角川書店 「天地明察」 1800円+税) |
No47 「扉守 潮ノ道の旅人」 光原百合 2010.1.24 No46で書いた「日常の謎」の作家が3人続いてしまった。私がこの光原百合の作品を初めて読んだのはNo22 「銀の犬」 でも書いたけど光原百合デビュー作の「時計を忘れて森へ行こう」だった。その作品を前任校で、「生徒へのお勧めの1冊」に書いた覚えがある。その後、ほとんどの作家が東京在住なのに光原百合は同じ広島県在住だということがわかり、さらに尾道大学の准教授で、今も教鞭を執っているということもわかってよけいに親近感を覚えた。 この作品は、彼女のホームグランドでもある尾道(作品中では「潮ノ道」)を舞台にした作品で、東西に細長い尾道の町に、南北に走る小路を組み合わせて、かつては繁栄したけど、今はそれほどでもない、しかしながらその降り積もった歴史が、そこはかとない妖しさを醸し出している港町の姿がよく描かれていると思う。 実は私は、大学を卒業して初めて就職した場所がこの尾道だった。ここに5年間住まいを構え(といっても、二間のぼろアパートに住んでいただけだけど)、この作品にも出てくる千光寺や向島を毎日見ながら暮らしていた。光原百合は私とわずか6歳しか違わないので、もしかしたら海岸端で行商のおばちゃんの魚を並んで見ていたり、天寧寺や慈観寺のボタンを前後になってそぞろ歩いたりしたことがあったかもしれない(たぶんないと思うけど)。 これには7つの短編が収められているが、最初の「帰去来の井戸」が一番良かった。雁木のある小さな飲み屋「雁木亭」、その奥には「帰去来の井戸」と呼ばれる井戸があった。その井戸の水を飲めば、この地の力に引かれて必ず帰ってくるといういわれがある。そして、寿命が尽きてどうしても帰れない人は・・・・・。 浄土寺、天寧寺、西国寺、千光寺、浄泉寺、西国寺・・・・そのほか、数え切れないくらいある尾道のお寺。かつては志賀直哉や林芙美子など著名な作家が生活した尾道には古くから港町として栄えた長い歴史を持っている。そんな尾道の路地を一つ曲がれば、今でもひっそりとこの雁木亭が佇んでいるような気にさせられる。 文藝春秋 「扉守」 1524円+税) |
No46 「配達あかずきん」 大崎 梢 2010.1.24 北村薫が現れて、推理小説に「日常の謎」という分野が確立された。それ以降、加納朋子、光原百合、この下に書いている森谷明子、そしてこの大崎梢などこの分野で名を成した人が多い。そして私は、この分野の作品が大好きである。「日常の謎」とは、日常生活の中で、ふと疑問に思ったこと、見過ごしてしまえば、何てことない出来事(謎)に合理的な説明を付けていくものである。それが解き明かされた時には、あーなるほどと膝を打つようなものであり、決してどろどろとした怨念や、殺人事件のオンパレードといったものとは一線を画している。 この配達あかずきんも、ごくありふれた本屋の日常の中で、ふと疑問に思ったできごとに明快な説明を付けていき、それならばつじつまが合うという経験をさせてくれるものである。この作品集には5つの短編が収められているが、その中でも「標野にて、君が袖振る」という作品が良かった。これは万葉集に出てくる額田王の作品である。さらには作品中に源氏物語も出てきて、それを漫画化した『あさきゆめみし』の漫画全7巻を借りて読み通した。それほど印象深い作品であった。これの謎解きは素晴らしいと思ったが、もしかしたら、解けない方がいい謎だったのかもしれない。 創元推理文庫 「配達あかずきん」 620円+税) |
No45 「七姫幻想」 森谷明子 2010.1.23 「赤朽葉家の伝説」を読んで、桜庭一樹が好きになり、文庫になった桜庭一樹読書日記の「少年になり、本を買うのだ」を読んだ。この人はたくさん本を読んでいる。私も昨年1年間(2009年)で246冊の本を読んだけど、それどころじゃない本を読んでいる。さらにそれぞれにコメントを書いている所がすごい。その中で、いろいろ気になった本があったけど、実際に買ったのはこの「七姫幻想」だ。桜庭一樹の読んだ本が、表紙の写真と桜庭本人や編集者のコメント付きで簡単に欄外に紹介してあるのだけど、この本の紹介には次のように書いてあった。「担当編集者として森谷さんのデビューに立ち会った僕は、『七姫幻想』を読んでこの作品の担当さんに嫉妬の念を覚えました。それくらいの傑作。(K島)」実はこのコメントを読む少し前に、アイソロジーでこの中の1編「糸織草子」を読んでいた。そこで私はすぐに「七姫幻想」を買って読んでみた。7人の姫つまり、秋去姫、朝顔姫、梶葉姫・・・など7つの異称を持った七夕伝説の織女をさまざまな妖しい、いや幻想的な手法をもって書かれた連作短編で、ちょうど織物の縦糸と横糸が絡まり、単独の糸では描くことのできない絢爛豪華な模様を眼前に不意に浮かび上がらせたような作品だった。特に最後の「糸織草子」は忘れられない印象を残した。 双葉文庫 「七姫幻想」 667円+税) |
No44 「聞き屋与平」 宇江佐真理 2009.8.28 宇江佐真理は好きな作家の一人で、これまでにもこの欄で「紫陽花」や「雷桜」を取り上げて書いたことがある。それで宇江佐真理の作品(特に文庫)があれば手に取ってみる習慣が付いた。これも出たばかり(もちろんハードカバーは3年前に発行)の作品である。 与平は隠居して「聞き屋」を始める。様々な人間が様々な話をこぼしていく。愚痴であったり、不満であったり、過去に犯した犯罪であったり・・・・。話し手はそこでいくらかの重荷を下ろすが、与平は適度に相づちを打ちながらじっとそれを聞く。与平はそんな人のしんどさを幾分かでも肩代わりしていく与平にはそれなりのわけがあった。この中では「雑踏」が心に残った。 この作品はまわりを囲む人たちがまた素晴らしい。与平の三人の息子たち。そのつれあい。そして与平自身のつれあいのおせき。おせきは奉公人から与平のつれあいとなったが、長年口には出さなかったが、深い思いがあった。 宇江佐真理の作品はほんのりと私の心を暖かくする。ぜひともこの作品の続編が読みたいと心から思った。 集英社文庫 「聞き屋与平」 571円+税) |
No43 「阪急電車」 有川 浩 2009.8.28 この作者は「図書館戦争」(まだ読んだことないけど)を書いた人で、名前は知っていた。電車をテーマに連作短編を書いたということで、阪急電車に乗ったことのない私ではあるが手に取った。片道わずか15分の宝塚駅から西宮北口駅を折り返す電車で様々な人間模様が語られる。運命の人に出会ったり、呪いをかけたり、犬を飼うことを決めたり、別れを覚悟したりなどなど。一つの短編はそれで終結しているが、そこを横切る人が次の短編の主人公となる。からみ合う人々を乗せて、知らん顔をしたまま列車は終点めざして走り続ける。そして終着駅に着くと、電車はそこから折り返す。 物語は、往路で描いた人々のその後を復路で描く。それもただの事後報告ではなく、往路で学んだことが生かされる形で話が進んでいく。読者は乗客と一緒になって旅(というにはあまりにも短いが)を続けていく。主人公と一緒になって憤ったり、「ちょっと違うんじゃない」などと感じながら。 「こんな作品を読みたかった」というものを形にしたような作品である。「図書館戦争」も手に取ってみたくなった。 幻冬舎 「阪急電車」 1400円+税) |
No42 「デンデラ」 佐藤友哉 2009.8.27 棄老伝説で有名なのは深沢七郎の書いた「楢山節考」だ。私はこれを1976年2月に読んだ。高校2年の時である。それからいくつか棄老伝説に関わる物語を読んだ。さらには「楢山節考」ではなかったが、棄老伝説を扱った物語を教員仲間で芝居として上演したこともある。この「デンデラ」はそれに連なる物語の一つだ。 70歳になり山に捨てられた斎藤カユは50人もの老婆が山の中で集団で生活していることに驚く。『お山参り』を望んでいたカユにとって、助けられたことは、自分の意志に全く反していて納得できない。 (デンデラと称する)その村の長は100歳になる三ツ屋メイで、彼女はデンデラにいる女たちを毎日鍛えて、村への復讐を果たそうとしている。 カユは村への復讐(襲撃派と称する)にも同調できず、かといってそれとは立場を異にする穏健派とも一線を画しながら、次第にデンデラの生活になじんでいく。しかし、もともと生産手段もなく、労働力にも乏しいデンデラに巨大羆や疫病が襲いかかり、老婆たちはだんだんと数を減らしていく。 新しい土地をめざすべきか、それともここに留まってこぢんまりと暮らしていくのか、果てまたそれ以外の生きていくすべはあるのか・・・。この物語は読者をぐいぐい引っ張っていく。 それにしても、三ツ屋メイを初めとしたこの老婆たちの元気なこと。時々、「一体この人たちは何歳なのだ」とつっこみを入れたくなる。そして、同じように山に捨てられた男は絶対に助けようとしないドライさも際だっている。 村人たちにも知られることなく生活を営む老婆たちの里が、過去においてなんだか本当に存在したような気持ちにさせられた。 新潮社 「デンデラ」 1700円+税) |
No41 「ユーザーイリュージョン」 トール・ノーレットランダーシュ 2009.8.26 この本は「大学新入生に薦める101冊の本」(広島大学101冊の本委員会編 岩波書店発行 1400円+税)で薦められていた1冊である。最近立て続けに脳に関連した本を読んだ。「錯覚する脳」(前野隆司 筑摩書房 1800円+税)や「脳はなぜ『心』を作ったのか」(前野隆司 筑摩書房 1900円+税)、「脳は『罠』をしかけてる!」(竹内薫 東京書籍 1300円+税)などである。その中ではこの「ユーザーイリュージョン」が飛び抜けておもしろかった。最初は4200円+税という金額と、566ページという厚さに圧倒された。そして読み始めても難しく、なかなか読み進めないということも感じた。しかし、おもしろい。 第1部は「計算」という題が付いていて、「マックスウェルの魔物」や「熱力学の第2法則」「ゲーデルの定理」など物理学、数学の話だった。難しいなりに、自分の専門に近い分野でもあるので、興味深く読み進めた。第2部の「コミュニケーション」では、「私たちは入ってくる情報の100万分の1しか意識していない」ということが明らかにされる。私たちは常日頃、すべてを意識して判断を下しているように感じているが、それは大きな間違いで、感覚器官を通して入ってくるほんのわずかしか意識にのぼらせていないことがわかる。 そしてこの本の中心をなす第3部では「意識」という題目で、私たちがこれまで考えもしなかった事が明らかとなる。この本の帯にも書いてあることだが、「意識は0.5秒遅れてやってくる」ということだ。他の本も合わせて読んで私の理解した所では、「脳は時間合わせの錯覚を起こし、時間を前に遡って理解したように私たちを欺く」ということである。具体的に言うと、例えば本を読んだり話を聞いたりするとき、それを理解する時間がほんのわずかであっても必要となる(知覚と理解にはタイムラグがある)のに、脳は時間を遡って、今聞いている、今読んでいると錯覚させるということである。また何かを思い出す場合にも、思い出すための情報処理の時間があった後に思い出す瞬間があるのに、脳はその思い出そうとする時間を感じさせないで、この瞬間に思い出したと錯覚させるということである。私の説明でよくわからないという方は、ぜひとも上記の本を読んで自分で納得して欲しい。 著者は「ユーザーイリュージョン」の説明を「パソコンのモニター画面上には「ゴミ箱」「フォルダ」など様々なアイコンと文字が並ぶ。実際は単なる情報のかたまりにすぎないのに、ユーザーはそれをクリックして仕事をしてくれるので、さも画面の向こうに「ゴミ箱」や「フォルダ」があるかのように錯覚する現象をさす。」と説明している。この本の副題は「意識という幻想」である。また前野隆司は「錯覚する脳」の中で、「イリュージョン」を「幻想」と表現し「意識は幻想または錯覚のようなものだ」としている。脳は私たちをいつも欺いているのである。 そして最後の「平静」と名付けられた第4部では、1990年代に核戦争の脅威が急減した原因を「信じられないほど多数の人々が同時にこの[核の]問題を取り上げ、それぞれのやり方で何かをしようと試みたせい」と断じている。その後に著者は[感動的なほどうぶ」と自分を表現している。しかし、本文にもドストエフスキーの発言の引用として出てきた「美は世界を救う」という言葉と共に、脳にうまくだまされている(錯覚させられている)私はそこに一片の救いを見いだす。 今年まだ半分過ぎただけだが、この本が今年の最大の収穫のような気がする。 紀伊國屋書店 「ユーザーイリュージョン」 4200円+税) |
No40 「君の望む死に方」 石持浅海 2009.5.24 石持浅海に出会ったのは、「アイルランドの薔薇」(光文社文庫)だった。これがデビュー作(正確にはアンソロジー『本格推理 11』の「暗い箱のなかで」これも読んだが、覚えてない)だったが、素晴らしい筆力に驚いた。息も付かせぬ迫力でぐいぐい引っ張られたという印象が強い。しかし、この後しばらくあいて「月の扉」(光文社文庫)を読んだ。これも意外な展開で、気に入った作品だった。ただ、読む前は「アイルランドの薔薇」を書いた人だと気が付かず、読んでから「あー、あの人が書いたものだったのか」と思いついた。その後しばらくしてから、『扉は閉ざされたまま』が『このミステリーがすごい! 2006年版』で第2位に選ばれ、この作品を読んでから猛然とこの人の作品を読み進めた。「水の迷宮 」「BG、あるいは死せるカイニス」「セリヌンティウスの舟 」「顔のない敵」「心臓と左手」などである。そして今回この「君の望む死に方」を手に取った。 この作品は、「扉は閉ざされたまま 」に近いというか続編というべき作品である。「扉は閉ざされたまま 」は殺人が行われたが、その被害者を目にする前(つまり、扉が開けられる前)に推理ですべてのことがわかってしまう・・・・という作品だったが、今回の 「君の望む死に方」は犯罪が起こる前に、すべてのことを推理してその犯罪を止めてしまおうという作品だった。このようなキャラクターの描き方には賛否両論あるだろうが、私はなかなか気に入っている。現象から、何を意図してその現象が起こっているのかを推理していくこのやり方は私が望む「安楽椅子探偵」にも似た論理の究極を思い描かせる。 ただ今回の作品の結末は少し不満。ネットで見ると、多くの人がこの終わり方を評価しているが、私は次のように考える。 ただ、ネタバレにつながるので、反転している。 優佳の説得が無効に終わり、日向がドアストッパーの受け取りを拒んだ後のことだ。日向は梶間を「殺人を遂行させた後、殺人犯とさせない形で」思いを遂げさせたいと思っている。しかし、優佳が知ってしまった以上、「殺人犯とさせない形で」ということは、優佳がしゃべらないという前提でしか成立しない。だから、優佳が「犯罪が起こってしまったら、私は真相を暴く。」と言えば、この計画そのものは瓦解してしまう。そうなってしまえば、梶間を逮捕させないためにも、日向はこの犯罪の発生を止めなければならない立場に追いやられる。日向はこれまでと全く逆に「犯罪の発生を止める方向」(例えば、ドアストッパーを受け取るといった行動)に動かざるを得なくなる。これそうなれば、までとはまったく違った(逆の)視点の一つの作品が生まれるのではないかと思う。それはそれで読んでみたいが、それではあり来たりの作品になってしまうので、このような結末にしたのであろうが、その部分は優佳がしゃべらないという前提が含まれているので、やや不満が残る。 今回は、伏せた部分が多くてすみませんm(_ _)m 詳伝社 「君の望む死に方」 838円+税) |
No39 「エンプティー・チェア」 ジェフリー・ディーヴァー 2009.4.19 ジェフリー・ディーヴァーは書店で「魔術師(イリュージョニスト)」上・下を手に取ったのが最初だった。私は前にも書いたと思うけど、外国ものは登場人物の名前が覚えられなくてなかなか手が伸びない。しかも、上下巻となるとほとんど買うことはないのだけど、この時期どうした事か、これとウィングフィールドの「フロスト気質」上・下も買ってしまった。そしてどちらも飛び抜けておもしろかった。その後フロストシリーズも「夜明けのフロスト」「夜のフロスト」「フロスト日和」を立て続けに読んだ(「クリスマスのフロスト」は過去に読んでいた)。どれもフロスト警部の活躍に腹を抱えて笑い、また報われないフロスト警部に同情した。 ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズ も「これは初めから読まなくてはいけない」とばかり、 「ボーン・コレクター」「コフィン・ダンサー」「エンプティー・チェア」と読み、次には「石の猿」が待っている(もちろんハードカバーではこれ以外にも、「12番目のカード」や昨年の「このミス」で堂々1位になった「ウォッチメイカー」などもあるが、気長に文庫に落ちるのを待っている)。 それで今回取り上げるのは一番最近読んだ「エンプティ・チェア」だ。どの作品でもよかったのだが、一番最近読んだというのと、四肢麻痺のライムがニューヨークを離れて治療に赴いたノースカロライナの田舎町で犯罪に巻き込まれるといういつもとは違う展開があった。 女子大学生が誘拐され、容疑者は十六歳の“昆虫少年”。広大な湿地帯を舞台に絶体絶命のピンチに陥りながらも、逆転、またどんでん返しと息つく暇もない。やはり、証拠から論理だけで真実を突き詰めていく安楽椅子探偵ものに私は惹かれるなぁ。 文春文庫 「エンプティー・チェア」(上・下) 上・下共 750円+税) |
No38 「カラスの親指」 道尾秀介 2009.4.19 「このミステリーがすごい」の2009年度版(2008年度作品)の堂々6位にランクインした作品である。刑務所で犯罪者が集まると、一番バカにされるのが婦女暴行で、二番目が詐欺師、一番でかい顔をするのが殺人を犯した犯罪者であるというのを聞いたことがあるが、私は詐欺師というのは誰にでもできる犯罪ではないと思う(もちろん殺人も違った意味で、誰にでもできる犯罪ではない)。 この小説は、けちな中年二人組の詐欺師がさまざまな事件に巻き込まれ、どたばたをくり返しながら、一世一代の詐欺を仕掛けるのだが、その結末は・・・・。 見出しの付け方も凝っていて、、HERON(さぎ)、BULLFINCH(うそ)、COCKOO(かっこう)、STARLING(むくどり)、ALBATROSS(あほうどり)、CROW(カラス)となっている(実際は日本語名はなく、代わりに発音記号が書いてある)。私はこれを書くため、辞書を引いて、HERONとかBULLFINCH、STARLINGの単語の意味が初めてわかった。 この本も仕掛けがあるので、これ以上書けないけど、ぜひ手にとってこの感動を味わって欲しい。なお、この本に刺激されて、同じ作者の「向日葵の咲かない夏」を読んだが、これは私の趣味ではなかった(あくまで私の趣味ではなかったので、決して作品そのものがダメというわけではない。念のため)。 講談社 「カラスの親指」 (1700円+税) |
No37 「プラハの春」 春江一也 2009.4.19 この本もNo35の「チグリスとユーフラテス」と同じように、図書委員会が毎年2回発行している「お勧めの1冊」で、他の先生の紹介文で読んで買う気になった本である。 以前より「プラハの春」という言葉は聞いていた。プラハというと、かつてのチェコスロバキア(1993年にチェコとスロバキアに分離独立)の首都で、音楽と芸術の都というイメージがある。それに春が付くのだから、この言葉には「長安の春」と同じように芸術を謳歌する明るいイメージをずっと抱いていた。 「プラハの春」とは、チェコスロバキアで1968年の春から夏にかけて、新任のドプチェク党第一書記の下に一連の自由化政策(検閲の廃止や政党の復活などの改革)が行われたが、8月ソビエト連邦軍主導のワルシャワ条約機構軍が軍事介入し、改革派指導者を一時ソ連に連行した一連の事件の事である(軍事介入のみはチェコ事件という)。 遠く離れているため、「プラハの春」はほとんど日本に影響がなかったとされるが、当時チェコスロバキアに駐在した日本の外交官という視点を通してこの物語は語られている。日に日に圧迫を加えるソビエト連邦、それに必死に抵抗するチェコスロバキアの人々。駐在しているため、否応なしにそこに巻き込まれていく堀江(主人公)。カテリーナとの恋愛感情も交えながら、一気にカタストロフィーになだれ込んでいく、息もつかせない迫力。そんな中で、私は昨年聞いた憲法論議の講演を思い出していた。別の所で書いた私の文章を引いてみる。 「憲法とは何か」という演題で、『憲法とは私たちを縛るものではなく国家を縛るものだ』という話が印象的だった。とかく私たちは法律というものは、「あれはしてはいけない、これはしてはいけない」と私たちが縛られているように感じ、公務員はストをしてはいけないとか、道路交通法違反の罰金とか、憲法・法律は私たちに規制をかけているものという感じが強かった。しかし、憲法とはそもそも国民が国家に権力を一時的に渡す代わりに、権力を持った国家が暴走しないように歯止めとして制定したものである。だから言い換えれば国家を縛るものであり、私たちの人権を守るものである。そこで私が感じたことは、憲法改正にしても、私たちの方から「時代に合わなくなってきたから、この部分をこのように変えましょう。最近権力の側が野放図になってきたし。」と権力側を縛るものとして提案するのが本来の姿であって、権力の側から「ここの条項がじゃまになるから、ちょっと変えようや」と言うべきものではないということであった。 プラハの春は直接的には日本にほとんど関係なかったようである。しかし、憲法改正論議で揺れる日本に、この本を通して国家と国民のあり方を再び考えてみるよう訴えかけてきているような気がする。ぜひこの作品の続編ともいえる「ベルリンの秋」「ウィーンの冬」も読んでみたいものだと思う。 (集英社文庫 「プラハの春」(上・下) 上 686円+税 下 686円+税) |
No36 「イニシエーション・ラブ」 乾くるみ 2009.4.19 過去に私は、乾くるみの小説は、「塔の断章」「林真紅郎と五つの謎」「リピート」を読んだことがあり、このイニシエーション・ラブを読んでから「Jの神話」を読んだ。地方の国立大学理学部数学科を卒業しているという経歴が私と同じという点で親近感を抱いた。実は最初私は、この乾くるみというペンネームから女性だと思っていたが、紛れもない男性である。 さてこのイニシエーションラブという小説だが、最初は単なる恋愛小説かと思って読み始めた。2部構成(side Aとside B)に分かれていて、表題には1980年代後半に流行った流行歌の題名が使われ、内容的にもその当時の時代を象徴するものが数多く出てくる(例えば花金、クイズダービー、国電、十角館の殺人などなど)。同じような話が2つ書かれていて、しかも出てくるものが懐かしいものばかり。ノスタルジーを感じながら、ボーと読み進めていた。だから、裏表紙の内容説明で触れられていた「最後から二行目で、本書は全く違った物語に変貌する。」と指摘してあった最後から二行目も、「あっ、間違って呼んで、二股がばれた」という感想しか持たず、私の中では『全く違った物語に変貌』しなかった。 ところが読み終わってしばらくして、「私の読み方はどうもおかしかったのではないか。」という気がしてきて、インターネットで検索してみた。そうしたらわりと詳しく解説しているサイトが二つぐらいあって、それを読んでようやく、「あーーー、そうだったのか。」と納得した。その内容はここに書けない(ぜひとも自分で手にとって、私と同じような感動を味わって欲しいから)。いくつかのサイトで書いてあったけど、この作品が、記念碑的な作品になっていることは間違いないだろう。大矢博子の書いている解説(特に『イニシエーション・ラブ』を理解するための用語集)も大変楽しめる内容だった。 ちなみに、この作者の他の作品では「リピート」がおもしろかった。 (文春文庫 「イニシエーション・ラブ」 571円+税) |
No35 「チグリスとユーフラテス」 新井素子 2008.11.20 私の勤める学校の図書委員が毎年2回発行している「お勧めの1冊」の冊子で、他の先生が紹介している文章を読んで、この本を手に取る気になった。私は本来、どんな本でも活字さえあれば食らいついていくのだが、それでも苦手な分野が二つだけある。それは少女マンガとSFだ。少女マンガはあの独特な世界にについていけないので、とんと近寄らないようにしている。そして、元来ロマンチィストでありながらリアリストな私はSFを苦手としている。推理小説が好きなのも、一応論理的に話のつじつまが合うように作ってあるのが推理小説だと思っているからだ。 しかし第20回日本SF大賞を受賞した「チグリスとユーフラテス」というのは、紛れもなくSFである。遠い将来、惑星に移住した人類が一時は繁栄しながらも、やがては人口がどんどん減少していき、最後の一人となってしまう。その最後の一人となったルナの物語である。 惑星に自分一人となった時、ルナはコールド・スリープで眠りについた人を起こしてその人の存在意義、そしてルナ自身の存在意義を質していく。しかし、なかなかルナの満足いくような答えを得ることはできない。 最後にその惑星に移住してきて、その惑星の社会の創始者であるレディ・アカリをコールド・スリープから起こして、生きる意味を問いただす。アカリはルナを前にして自分の一生を振り返り、自分の生きざまを一つひとつ確かめながら、その上にたってルナにある要求を突きつける。 その結果、惑星における最後の人間として、ルナは幻想的な光景の中、自分の存在意義について思いをめぐらす。 生きることの意味を問い直すこの本に巡りあえてよかった。 (集英社文庫 「チグリスとユーフラテス」(上・下) 上 686円+税 下 571円+税) |
No34 「シズコさん」 佐野洋子 2008.11.20 佐野洋子は「100万回生きたねこ」という絵本で以前から知っていた。これは、一匹のねこが、さまざまな国で、さまざまな職業の飼い主(時にはのらねこ)に飼われ、何回も生まれ変わる(物語の中では100万回)話なのだが、何回生まれ変わってもどこか満足できないで死んでいき、また生まれ変わってしまう。しかし、最後には満足して死ぬ(それには当然理由があるのだが)と二度と生まれ変わらなかった、というようなストーリーだったと思う。娘に読んで聞かせてやった覚えがあるし、教材としてつかったこともあるので、今でも私の本箱には収まっている。 しかし、それとはがらっと変わって、この人の書くエッセイはとてもおもしろい。「神も仏もありませぬ」(第3回小林秀雄賞受賞)とか、「あれも嫌い、これも好き」や最近の作品では「役にたたない日々」(この作品の最後で、ガンが骨に転移して、医者からあと2年の命と宣言されたと告白している)などを読んだ。暗闇の中で露天風呂を探して崖を降り、傷だらけになりながらもその露天風呂に入ったという話は、腹を抱えて笑いこけた。また、「役にたたない日々」では、毎朝起きると足でカーテンを開ける。開けることができれば、私もまだ大丈夫だと安心できる、というのが繰り返し出てくる。「これが『100万回生きたねこ』を書いた人?」というギャップが大きいというのも驚きの一つだ。 その佐野洋子の作品で、一番最近読んだのがこの「シズコさん」だ。自分の生い立ちを通して、自分の母のことを書いた作品だ。佐野洋子は一生懸命物事に取り組むのに、決して母はそんな洋子をほめない。ほめないどころか、認めようともしない。しかし、この母は家事を完璧にこなす。そして、決して人に「ありがとう」を言わない。成人するとそんな母を洋子は冷めた目で見る。「だって私は、かわいがられたことがないから。ぎゅっと抱きしめてもらったことがないから」と。 途中まで読んで、これはいつもの佐野洋子のエッセイのおもしろさがないし、つまらない本を選んでしまったと後悔していた。ところが最後のあたりで俄然おもしろくなった。おもしろいといっても、いつもの「ゲラゲラ笑う」おもしろさではなくて、「いいものを読んだ」というおもしろさだ。 年をとって、母は呆けた。呆けたらすべてが変わった。バケツの底が抜けたかのように「ありがとう」を連発した。娘に自分の至らなさを何度も何度も謝った。呆けなかったら、そのままあの世に持って行ったもろもろを呆けたがために最後の最後で、全部はできなくてもその何分の一かははき出してあの世に行った。それが残された佐野洋子にとって大きな価値があったと思える。 本の帯には次のような言葉がある。「母さん、呆けてくれて、ありがとう。神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」 佐野洋子も死期が近づいている。人生の最後の時を迎えようとしている今だからこそ、書くことのできたこの作品の前に私は頭が下がる。 (新潮社 「シズコさん」 1400円+税) |
No33 「狂い咲き正宗」 山本兼一 2008.11.20 山本兼一の本をこの欄で取り上げるのはNo24 「いっしん虎徹」 に続いて2冊目となる。他にも小説NON短編時代小説賞受賞の「弾正の鷹」や、第11回松本清張賞受賞の「火天の城」を読んだが、この人の書く本としては、私はなんと言っても「いっしん虎徹」もそうだが名刀にまつわる話がおもしろい。今回は連作短編という形で、副題に「刀剣商ちょうじ屋光三郎」とあるように、光三郎が主人公である。この光三郎というのが、奉行の家に生まれながらも、その裏の汚さを見てしまったが故に、刀剣商の店に転がり込み商人になってしまう。元々その奉行というのが御腰物奉行というもので、将軍家が使う刀はもちろん、大名に下賜する刀剣、大名から献上された刀剣を扱い、刀の試し切りや拵えの彫金まで目を光らせるという役割である。したがって、刀剣商との関わりも深く、たびたび光三郎の父も光三郎に頼み事をしにやってくるが、そこは奉行と商人という関係を守って対応していく。 名刀といっても数々あり、国広、康継、正宗、助広、清麿、虎徹、村正などがある。ちなみに私が知っていたのは、正宗、虎徹、村正などである。この本には7つの短編が収められているが、中でもおもしろかったのが5話目の「うわき国広」と最終話の「だいきち虎徹」だ。 「うわき国広」は国広が大好きな武士と、虎徹に惚れ込んでいる武士との話だ。どちらも素晴らしい国広、虎徹を所有していて、相手の集めている国広、虎徹が手に入れば融通していたのだが、滅多にお目にかかれない名刀が手に入ったばっかりに・・・・。 「だいきち虎徹」は刀剣を鑑定する剣相家が現れ、虎徹を見てもらうとそこにはくっきりと「凶相」が。お祓いに高い金子を要求され、そんなことは信じない主人公がお祓いを断ると次々に身の回りに不幸な出来事が・・・。人の気持ちを刀剣と絡めて上手に描き出している名品である。ぜひともこのシリーズの続きが読みたくなった。 (講談社 「狂い咲き正宗」 1600円+税) |
No32 「宇宙でいちばんあかるい屋根」 野中ともそ 2008.5.6 北上次郎が編集した「14歳の本棚」 部活学園編、初恋友情編、家族兄弟編 を読んで、何冊か読んでみたい本があった。「14歳の本棚」はテーマに沿った短編ないしは長編の一部を集めたもので、この「宇宙でいちばんあかるい屋根」は最初の部分だけを読んだ。そこで文庫本を買ってきて、星ばあとドジな女の子の関わりが今後どのように発展していくのか、ワクワクしながら読み進めた。 青春小説はこれまでにも何冊か取り上げて書いた。青春小説はちょっぴりほろ苦い思い出を大切にしながら、純な心を忘れない人でしか書けない物語のような気がする。だから、青春まっただ中の人が書くよりも、年を取ってからそれを振り返って書く人の方がうまく書ける気がする。それは酔っぱらいの格好をするのは、酔っぱらっている人よりもそれをそばで見ている人の方が上手だということにつながるものがあるのかもしれない。 「ほしかったのだ。自分がなにかをしているという手ごたえ。何かを探して見ひらく目に映るもの。ちゅうとはんぱに目標をうばわれ、腹立たしさがぬぐえないでいる。そんなことを思うとき、星ばあの声がきこえる気がした。----ほらまた。なんでもかんでもひとさまのせいにすんじゃねえって、言ったろう。」 青春とは見返りなしに、打算なしに、純に物事に打ち込める唯一の時かもしれない。だから人はあとから思い出して、それを懐かしく思いながらも、決してそこに帰りたいとは思わないのだ。もちろん「帰りたい」という人はいるけれど、「本当に帰りたいのか」と私は聞いてみたい気がする。 (角川書店 「宇宙でいちばんあかるい屋根」 552円+税) |
No31 「のぼうの城」 和田 竜 2008.5.6 この本の帯に「王様のブランチ」にて大絶賛とあった。実は私はほとんどテレビを見ない人なので、この「王様のブランチ」という番組も見たことはないのだ。合わせて谷原章介氏(俳優)が「はっきり言って今年のナンバー1」と絶賛していたが、谷原章介氏も私は知らない。 ただ、この本はおもしろかった。私は中国が好きで、ゲームでも「信長の野望」よりは「三国志」という人だ。なぜかというと、戦国物を読んでも、中国の方がスケールが大きく、「空城の計」(これは実際にはなかったといわれているが)や墨子を描いた「墨攻」(これも小説か)など意表をついた戦い方がおもしろいと思うからだ。しかし、今回この「のぼうの城」を読んで、日本にも中国に勝とも劣らない戦い方をした戦国武将がいたのだとわかった。決して有名ではない(私はこの本を読んで初めて知った)成田長親(この小説の主人公・・・「でくのぼう」から「のぼう」と名付けられた)に出逢えて(もちろん本の上だが)、本当によかったと感じた。 上に立つものは、素晴らしい判断をいつもいつも示せるものではなく(逆に言えば、小さいことをいつもいつもぐだぐだ言うのではなく)、普段は「ぼー」としててもいざというときに迷いのない判断が下せればいい。その方が従うものは個性が発揮できて生き生きと活動できるのである。 また、日頃の生活の中でも感じることだが、「この人のためだったらやれる」という人を持てる事が幸せなのではないだろうか。それは、「やってもらう」側だけでなく、「やる」側にしても、そういった人を持ち得ているということが、自分自身の幸せにつながっているような気がする。 (小学館 「のぼうの城」 1500円+税) |
No30 「赤朽葉家の伝説」 桜庭一樹 2008.2.22 私は今年度この作品で桜庭一樹が直木賞を受賞したのかと思っていたが、受賞作品は『私の男』だった。だからといってこの「赤朽葉家の伝説」が決して受賞作より落ちるというわけではないだろう(実は「私の男」を読んでいない)。「赤朽葉家の伝説」は第60回日本推理作家協会賞を受賞しているし、2008年版「このミステイリーがすごい!」で第2位に入った作品である(私はこれで読む気になった)。 鳥取県の古くから続く製鉄業の親子3代を綴った作品である。たたらの歴史も散りばめ、世の中の動きに翻弄されながらも、自分の生き方を大切にしていくその生き方と、背後に横たわる旧家の息吹。それはかつて行った岡山県吹屋にある八つ墓村のモデルともなった広兼邸や、たたら製鉄で栄えた島根県奥出雲の旧家、可部屋(本陣であった櫻井家の屋号)を思い起こす。 祖母の万葉は「辺境の人」に置き忘れられ、貧しく育ちながらも望まれて赤朽葉家に輿入れする。この人は千里眼を持ち、人のこれからが見える。その娘の毛毬。十代は暴走族として暴れ回り、二十代になると漫画家として超一流の売れっ子となりながらも、若くして亡くなる。そして万葉の孫となる瞳子。語るべき物語は何一つ無いと感じる。確かに千里眼でもないし、暴走族でもない。漫画家などのように人より秀でた才能もないように見える。でも「何一つ無い」というのは、個人の持っているもののことを言っているのだろうかと読み終わって考えた。それは一見個人レベルのことを語っているようで、本当はこの社会全般のことを語っているのではないかと考えたからだ。 私は万葉の娘に当たる毛毬の世代より少し早く(9年前)この世に生を受けた。私たちの親の世代は、何もない所から戦後の復興を成し遂げてきた。そこには貧困がありながらも、なにかを作り上げていくという目標がくっきりとあった。私たちより少し上は「60年、70年安保」の世代で、親の時代が作り上げた世の中のあり方に疑問を持ち、青春の力のはけ口を学園紛争とかデモ行進、社会変革に求めていったように感じる。しかしその闘いは社会に跳ね返され、敗北感を抱きながら社会に埋没していく。 私の時代には学園紛争の熱も冷め「しらけている」と言われながらも、まだその熱は社会のここ彼処に幾分か残り、それを感じながら基本的には前を向いて上の世代と協力しながら安定成長期の社会を維持していったと思う。ただ私自身は「遅れてきた世代」と自分自身を感じてもいた。80年安保に間に合ったと思ったら、それはいつの間にか自動延長になっていて、80年安保反対闘争はなかった。 そして万葉の孫の世代瞳子の時代。社会はバブルもはじけ、かつての右肩上がりの経済成長は望むべくもない。その時代、社会の中でなにかを成し遂げていくよりも、個人の生活の中に自分の生きがいを探し求めるという時代になった。それなりに幸せと生きがいを感じながらも、かつてあったような「なにかを作り上げ、変革していくという営み」はなかなか求めても得られるものではない。そういったことを「何一つ無い」と表現しているのではないかと思った。 そして考えたのは、この「何一つ無い」というのが、この桜庭一樹自身が感じていることではないかということだ。年齢的には毛毬より4年後の1971年に生まれた筆者は、確かに今年直木賞受賞などをはじめとして華やかな脚光を浴びているが、自分自身の中に私が感じた「遅れてきた世代」を感じる部分があって、この作品を仕上げたのではないかと思う。これは全く私の独断的な思いこみかもしれないが、私はそのように感じた。 あとは時代の流れが丁寧に書き込まれ、それと対比した生き方がきちんと書かれていることが、この作品が評価される一つであったとも思うし、私もおもしろく読んだ点である。ただ、「口に含んだ飲み物を吹き出す」という場面が2,3カ所あったがこれなどは、劇画チックであまりいただけなかった。 最初にも書いたが、この作品が第60回日本推理作家協会賞、第28回吉川英治文学新人賞、第137回直木三十五賞候補になったのもうなずける優れた作品であった。 (東京創元社 「赤朽葉家の伝説」 1700円+税) |
No29 「下流志向」 内田樹 2008.2.22 最近「下流社会」とか「下層社会」「下層階級」とかいった言葉や本の題名を目にすることが多くなってきた。また、「格差社会」という言葉もよく目にするようになってきた。一昔前は「中流」という言葉がもてはやされていたのに・・・。この流行(はやり)言葉の変化は小泉首相が「構造内閣」を唱え始めた頃に源が遡れるような気がする。 内田樹は現在社会の閉塞状況の原因を「自己責任論」が根底にあると断ずる。山田昌弘の「希望格差社会」(これも読んだ)を引いてこの自己責任論を次のように説明する。 「自分自身のことに対しては、自分が決定する。これが自己決定の原則である。そして、自分が選択したことの結果に対して、自分で責任をとる。これが「自己責任」の原則である。リスクの個人化が進行するということは、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体である。リスクに出会うのは、自分の決定に基づいているのだから、そのリスクは、誰の助けも期待せずに、自分で処理することが求められているのだ。」 内田はこの考えを認めつつも、リスクをヘッジ(リスクに対処する)するためには共同体が必要だと述べる。今日「未婚化・非婚化」が言われるけれども、現実には高学歴で高収入の人の方が結婚率は高い。つまり社会的弱者と言われる人の方が支援者が持てないシステムになっている。そこで内田は「弱者が弱者であるのは孤立しているからです。」と言い切る。 これは考えさせられることが多かった。昨今よく「自己責任」という言い方がされ、「自己決定」したのだからその結果は自分で負わなければならないと言われる。確かにそうだと私はずっと思っていたけれども、この本を読んで考えを少し改めた。それは内田のホームページにある次のような文章を読めばはっきりする。 ****************************************** 「自分の努力と能力にふさわしい報酬を遅滞なく獲得すること」が100%正義であると主張する人々は、それと同時に「自分よりも努力もしていないし能力も劣る人間は、その怠慢と無能力にふさわしい社会的低位に格付けされるべきである」ということにも同意署名している。 おそらく、彼らは「勝ったものが獲得し、負けたものが失う」ことが「フェアネス」だと思っているのだろう。 しかし、それはあまりにも幼く視野狭窄的な考え方である。 人間社会というのは実際には「そういうふう」にはできていないからである。 何度も申し上げていることであるが、集団は「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援し扶助することで成立している。 これを「ノブレス・オブリージュ」などと言ってしまうと話が簡単になってしまうが、もっと複雑なのである。 「オーバーアチーブする人間」が「アンダーアチーブする人間」を支援するのは、慈善が強者・富者の義務だからではない。 それが「自分自身」だからである。 (http://blog.tatsuru.com/2008/01/19_0927.php) ****************************************** これを読んで思うのは、次のようなことである。 組合を持っている者がストライキをするのは、組合を持つことができない人々の給料を押し上げることにも繋がっている。だから、ストライキで電車が止まって「迷惑している」と利用客(その人自身が労働者であることがほとんどである)が述べることは、自分で自分の首を絞めていることになる。 また、その昔に九州のSホテルの労組が無期限のストライキに突入して、ロックアウトに入ったことを学習したことがある。パートのおばちゃんの首切りから端を発したその争議に組合員全員が首をかけて闘い、勝利したということを知った時、私は胸を熱くした。「どうせパートのおばちゃんがやめさせられるだけだから」という地点に組合員が立ったなら、パートのおばちゃんはやめさせられ、そのうちに管理体制が強まり、正職員の首切りにも繋がっていったと思う。だから、巡り巡って結果的には自分のために闘い勝利したのであるが、その当時、そして今も同じように考え、同じように行動できる人がいったいどれだけいるだろうか。 RCCラジオを聞くと毎朝7時30分過ぎに「武田鉄矢・今朝の三枚おろし」という番組がある。この中で内田樹が取り上げられることがある。そしてこの本(下流志向)に書かれている「雪かき仕事」の話が出てくる。雪かきをする人は朝早く起き出して近所の人が知らないうちに道の雪をかく。起き出した人がその道を歩いている時にはこの雪かきをした人はもう姿を消している。誰が雪かきをしたか知らないし、感謝される機会もない。それどころかそこを歩く人はそれを意識することさえないかもしれない。しかし、そういう仕事をする人が社会の要所要所に必ずいる。こういった仕事は「自己利益」を最優先に考える人にはその重要度が理解できない。それでも社会の中にはこうした仕事を黙々と誰の評価も期待しないで続けている人がいるということを私たちは忘れてはいけない。そして、できればそのことに主体的に関われる自分でありたいと思う。 そんなことをも考えさせる本であった。ぜひとも手にとって欲しいものだと思う。 (講談社 「下流志向」 1400円+税) |
No28 「渾身」 川上健一 2007.12.24 川上健一の本を取りあげるのもNo13 「翼はいつまでも」に続いて二冊目となる。この人の本は他にも「雨鱒の川」「宇宙のウインブルドン」「ららのいた夏」などたくさん読んだ。いわゆる青春小説やスポーツ小説といったものが多いが、これも「相撲」をメインテーマに取り上げた小説である。といっても、昨今話題(特に悪い面が強調される)になるプロの相撲ではなく、地域の相撲大会(といっても20年に1回の地域では重要な行事となっている)である。 主人公は隠岐島で古典相撲の大関に選ばれる。過去の出来事で、なかなか地域に受け入れてもらえなかったこの一家が、この古典大相撲を契機に一気に地域のヒーローになっていく。それを見守る再婚した妻と娘。そして、この作品の半分以上を占める相撲の場面。それほど相撲に興味がない私も最初はこの場面に引き込まれて読んでいた。途中、なかなか決着が付かない相撲に、ジリジリしながらも、どうしても決着が知りたくて午前一時までかかって読み終えてしまった。 この川上健一の作品はからっと明るく、読み終えた気分は爽快である。この作品もその例に漏れず、満足のいくものであった。閉鎖的な地域性、それをけなげに生き抜こうとするこの一家は今も隠岐島で幸せに暮らしているような気がする。 (集英社 「渾身」 1600円+税) |
No27 「箕作り弥平商伝記」 熊谷達也 2007.12.24 熊谷達也の本を取り上げるのはNo14 「邂逅の森」に続いて2冊目となる。前作は人間とク ![]() 米作にはなくてはならない箕(これは米と籾殻、糠をふるいわけることに用いる便利な農具。神に捧げる米を選び分ける時にも使用された。普通は藤で作ることもあるが、竹で作るのが最も一般的である。)を作る人びとが主人公である。東北地方では竹取物語の翁のように箕などの竹製品を作る竹取は、神に仕える者として尊敬される存在であった。弥平はそういう自負を持っていたが、販路を広げるために出た関東では、竹細工をする人は差別される存在であった。そうした違いが最初弥平はわからず、様々な誤解も受けるが、次第にそこで差別にあえぎながらも竹細工を続ける人びととの出会いを大切にして交流を深めていく。 差別の理不尽さに闘いを挑む人びとに共感を覚え、一緒に闘っていこうとする弥平の姿に被差別の人びとは連帯感を抱く。ただこのラストはあまりにも悲しい。 (講談社 「箕作り弥平商伝記」 1700円+税) |
No26 「犯人に告ぐ」 雫井脩介 2007.11.20 雫井脩介の本を取り上げるのはNo17 「火の粉」 、 No20 「クローズド・ノート」に続いて、このコーナーでは3冊目になる。また徹夜(といっても、1時までだが)してしまった。「火の粉」のときもそうだったが、この人の本はのめり込んでやめられなくなる。おかげで次の日、眠かった。 豊川悦司が主演で10月に映画が公開されたらしいので(私は見てない)有名になったせいか、文庫落ちしているのではあるが、本屋で山積みしてあった。私はポップに惹かれて買ったのではなく、作者の名前で買ったのだけど・・・。 最初誘拐事件を取り上げてあるのでこれがメインかと思ったら、これは長い長い前奏曲だった。連続児童殺人事件、これがメインテーマだった。なかなか姿を現そうとしない殺人犯。それが呼びかけに応じてチラリと姿を見せた時、その尻尾をむんずとつかんで明るみに引っ張り出した。 私が興味を引かれた所は2つある。一つは「劇場型捜査」。「劇場型政治」と呼ばれる政治手法で一国の政治を司った政治家がいた。それを十分意識した「劇場型捜査」。マスメディアを自分の武器として犯罪者に迫っていくその手法は、ハラハラドキドキの緊張感をもたらした。もう一つ興味を引かれた所は、犯人を追いつめていく過程で内部から情報を流す発信源を見つけていくその手法だった。いわゆる倒叙推理小説と呼ばれる手法で、読者にはそれが誰かがわかっているが、主人公にはわからない。そのため主人公がトラップ(罠)を仕掛けてその人物をあぶり出す。しかし、誰かわかった時に、それを明らかにするのではなく、主人公の胸の中にしまい込んで、逆にその事を利用して・・・ここから先は推理小説なので×××。こんな心理戦のような推理小説が私は好きだ。これはその思いを十分に堪能させてくれた。寡作だが、これからも注目していきたい作家の一人である。 (双葉社 「犯人に告ぐ」(上・下) 上 600円+税、下 619円+税) |
No25 「千年樹」 萩原浩 2007.7.29 この作家は「神様からひと言」を読んで気に入ってしまい、「ハードボイルド・エッグ」「ゴールドゲーム」などを読み、山本周五郎賞を獲得し映画化もされた「明日の記憶」を読んだ。そののち、デビュー作で小説すばる新人賞を受賞した「オロロ畑でつかまえて」を読んだ。その他にも「メリーゴーランド」などを読みこの「千年樹」に到達した。 サラリーマンが一生懸命何かをやろうとするのだけど、なかなかうまくいかないまま、それでも心温まるエピソードがあるという作品が多かった(「明日の記憶」はそれとは違って、認知症を扱い、誰もが迎える老いという問題を投げかけるといった作品に仕上がっている)が、この「千年樹」はそれとは全く違って、1本のクスノキがそのクスノキのまわりで起こったできごとを淡々と描いていくという作品である。そしてそれは、多くの場合、楽しいことではなく、暗く、苦しいことである。その事をこのクスノキは千年もの間、じっと見守り続けるという形に仕上がっている。 時代が違う8編の短編から構成されており、その短編の中にもまた時代が違う短編が章毎に繰り返し出てきて、また、一つの短編で描かれた人物が別の短編でも形を変えて出てくるという、不思議な注意深く読まなければ混乱してしまうという本なのであるが、読み終わって何とはなしに心に残ったので、ここに書く気になった。「どこがどう良かったのか?」と聞かれると答えに困るのだが、ここに出て来る人物に感情移入しやすかったということかもしれない。 このクスノキが最後にはどうなるのか?・・・それは読んでのお楽しみである。 (集英社 「千年樹」 1600円+税) |
No24 「いっしん虎徹」 山本兼一 2007.7.29 本屋さんに勧められてこの山本兼一の「いっしん虎徹」を手に取った。 刀鍛冶の話で、江戸時代、関ヶ原の戦いもようやく昔のこととなった1650年頃の越前、そして江戸が舞台である。甲冑を作らせては並ぶ者がいない長曽祢興里(のちの虎徹)は、戦乱の世も遠く過ぎ去り、これからは甲冑ではなく刀の時代になると感じて江戸に出て刀鍛冶になっていく。その一生を追ったのがこの作品である。 普通だったら、すぐに刀鍛冶に弟子入りして一刻も早く刀を打つことをめざすのであるが、まずは奥出雲に行き、鉄の精錬から調べる所がこの男のすごい所である。死にそうになりながらも経験した鉄の精錬が、この後の刀鍛冶に生きてくるのである。 江戸に出て刀鍛冶に弟子入りし、そこで刀を打つ事を学びながらも甲冑も作ってお金を貯め、いよいよ自分の鍛冶場を作って刀を打つ。気合い満々で打った最初の刀は、夜中に剣先が飛ぶ。気合いが入りすぎていたのだ。2度目に打った刀は、これも自信満々だったが、自分より劣ると思っていた刀鍛冶が打った刀と勝負して、見事に折れてしまう。 そこからの執念がすさまじい。やがては悪意で入れられていた鉄もろとも甲(かぶと)を叩き切ってしまうほどの刀を鍛える。これは、作品の中にも出てくるが、虎と思って岩に矢を射込んだ故事とも似ておもしろい。 同じように「矛盾」の話と似て、虎徹が鍛えた甲を虎鉄が鍛えた刀で断ち割りたいと虎徹が思っていたいう話が出てくる。結局、実際にはその場面は出てこないが、どうなったのかぜひとも知りたい部分ではある。 (文藝春秋社 「いっしん虎徹」 1900円+税) |
No23 「ミミズクとオリーブ」「嫁洗い池」 芦原すなお 2007.2.10 古本屋で、昔懐かしい風景を描いたやわらかな感じのカバーの絵に惹かれて買ってきた。この芦原すなおという人が直木賞を貰っていたのは、著者紹介を読んで初めて知った。そういえば受賞作の「青春デンデケデケデケ」という題名は聞いたことがあるが、もちろん読んだことはない。今度読んでみよう。 東京創元社が出していることから、これは推理小説である。しかも私が推理小説の中ではもっとも好きな「安楽椅子探偵もの」(この対極にあるのが「ハードボイルド」というと、理解してもらえるだろうか?)である。こういったシリーズとしては、外国では「ママ」シリーズやアシモフの書いた「黒後家蜘蛛の会」などたくさんある。日本でも北村薫や光原百合の書いた作品にこのようなものが多い。このように、暴力沙汰や偶然を利用して謎が解決していくのではなく、与えられた条件だけを元に、純粋な推理だけで結論を導き出していくのが私は好きなのである。 この本は主人公の妻が推理のサエを発揮する小説で、主人公は小説家のようであるが、「書けない、書けない」を繰り返し、奥さんの香川の郷土料理を肴に酒ばかり飲んで、いつも二日酔いに苦しめられているどうしょうもない亭主に書かれている。ただこの主人公が犯行現場を見て、「おや?」と思ったことを妻に話すことで、事件が解決していくというスタイルである。 この作品のおもしろさは、もちろん論理的な推理のサエが素晴らしいのはもちろんであるが、それ以上に主人公と謎を持ち込んでくる警察官の河田との掛け合いがおもしろい。事件の話を真剣に話しているつもりでも、酒を飲んでいることもあって、いつの間にか脱線してしまう。そのやりとりが非常におもしろい。「ミミズクとオリーブ」では主人公が胃カメラを飲まないといけない事態になり、主人公と医師との会話がおもしろくて、私は夜中なのにゲタゲタ笑ってしまった。50歳近い男が、真夜中に文庫本を持ちながら、一人でゲタゲタ笑っている光景は、想像してみるとずいぶん不気味だ。 さらにこの小説の魅力の一つは、上にも書いたが香川の郷土料理が詳しく出てくるということだ。広島県からいえば香川県は近いのだが、初めて聞くような料理がたくさん出てきた。塩アンの丸餅とか関東炊き、豆腐の兄弟煮、きなこをまぶしたおにぎり(おはぎではない)など食べてみたいと思わせる料理がたくさんあった。 いつも転勤ばかりしている友人の河田はとうとうアメリカに転勤になったが、ぜひとも早く日本に帰ってきてもらって、これをシリーズを続けて欲しいものだと思う。 (東京創元社 「ミミズクとオリーブ」 580円+税) (東京創元社 「嫁洗い池」 600円+税) 上の文章を書いた時には、友人の河田はもう日本に帰ってきて活躍していた。2007年1月26日に次の本が発売されていた。その題名も「わが身世にふる、じじわかし」となんだかよくわからないものである。でも主人公のキャラと香川の郷土料理は健在。またまた、続きが読みたくなった。(2007.3.22) (東京創元社 「わが身世にふる、じじわかし」 552円+税) |
No22 「銀の犬」 光原百合 2006.8.14 本の買い方として気に入った本を一冊ずつ買っていくという方法があるが、それとは別に、この人の本なら見れば買う、出れば買うという買い方がある。私もこういった作者が何人かいた。古くは中学、高校時代の横溝正史から始まり、石川達三、柴田翔、立原正秋、高橋和巳など。就職してからは、島田荘司、綾辻行人、京極夏彦などの推理作家。宮城谷昌光、宇江佐真理、北原亞以子などの歴史小説家。最近では雫井脩介、野沢尚などあげればきりがない。この光原百合もそういったうちの一人だ。出会いは99年版の「このミステリーがすごい!」で「時計を忘れて森へ行こう」が15位に入っているのを見て、その書評とやわらかな表紙の絵を見て注文で買ったことがきっかけだった。北村薫を彷彿させる「殺伐でない推理小説」で、この一冊を読んで光原百合が気に入った。それ以来この人の本を読み続けた。決して多作ではなく、年に1冊ぐらいしか出ないのであるが、そのどれもが期待を裏切らない良作であった。「十八の夏」では第55回推理作家協会賞・短編部門を受賞した。ただこれまでの作品は、いわゆる推理小説だったが、今回の「銀の犬」はこれまでと全く違った作品になっていた。そのため、購入するのに躊躇したのであるが、光原百合の新しい可能性を開く作品に仕上がっていたと思う。ストーリーは、言葉を話すことができない伝説の祓いの楽人(バルド)であるオシアンが、旅を続ける中で出会う、さまざまな闇に属する相手である悪鬼(ボギー)や妖婆(カリヤツハ・ヴェーラ)などを従えた邪悪なものを、竪琴を奏でるという行為で退治していくという話である。ただそれだけでなく、それに関わったものの深い思いが織りなしていくさまざまな人間模様が描き出されている。特に表題作となっている「銀の犬」は、人を愛するということがどういったものなのかを、今一度振り返って考えさせてくれる作品に仕上がっている。後書きを読むと、作者はまたこの続きを書く予定のようなので、そこでオシアンがなぜ言葉が話せなくなったのか、なぜ伝説の祓いの楽人になったのかが明らかにされるだろう。それを楽しみにしていたいと思う。 (角川春樹事務所 「銀の犬」 1900円+税) |
No21 「さざなみ情話」 乙川優三郎 2006.6.25 乙川優三郎の書の本を取り上げるのは、No2の「武家用心集」No16の「希望」についで3回目になってしまった。前回のクローズドノートで、「なぜ、時代小説にはまってしまったのか」は時代小説の書評を書く時に明らかにすると書いたが、1ヶ月以上もたつとあの時何を書こうとしていたのかを忘れてしまった。ただ、年を取って嗜好が変わったのは事実だと思う。前は、推理小説などでいかに論理的な思考を重ねて解決に至るかという、そのパズル的なおもしろさが一番だと思っていた。しかし最近ではあれほど好きだったパソコンのゲームをすることもほとんどなくなった。人情の機微とか人の情愛とかいったことに前以上に心を動かされるようになったのは、確実に年を重ねてきて人との関わりにもまれ、そして人のやさしさや思いやりが以前よりずっと感じ取れるようになった結果だと思える。 この「さざなみ情話」はいつもの本屋さんが勧めてくれたもので、帯を読んでそして作者の名前を見て読む気になった。その帯にはこう書いてあった。 「岸辺に寄せる微かな波音を聞きながら、彼はしがみついてきた女の背をさすった。ちせにも別の人生があるなら、早く連れて行ってやりたい。そう思いながら、しょうことなくさすり続けた。するうち腕の中で眠りに落ちる女に、ひとつの感情を分け合う、肉親よりも近しい人を感じずにいられなかった。(本文より)」 遊女ちせとそのちせを身請けしようとする修次の生き様を描いた秀作である。底辺の生活にあえぎながら、そして、たびたび崩れ落ちていきそうな自分の心と闘いながら、それでも自分を見守ってくれる、支えてくれると信じられる相手があることで、ぎりぎりの崖っぷちから転げ落ちずに踏みとどまる二人。その二人に対して、貧しさとか他人からの冷たい棘が心に突き刺さる。やるせない思いを抱く二人に、本当に希求する明日はあるのだろうか。そのけなげさが自分の心象風景とも相まって、心にしみる作品となった。 (朝日新聞社 「さざなみ情話」 1500円+税) |
No20 「クローズド・ノート」 雫井脩介 2006.5.6 久しぶりに切ない恋愛小説を読み、不覚にも涙があふれた。ここ1,2年私は従来と傾向が変わり、時代小説が私の読書の大半を占めるようになってきた。ずっと、推理小説が中心であり、時代小説なんて60歳を過ぎてから読むものだと私の中で確立した考えがあった。その理由として、人情の機微というものは、年を取ってからではないと本当の深い意味はわからないだろうと思っていたからだ。だから、藤沢周平などは60過ぎてからの楽しみに取っておいたつもりだった。ところが40代も半ばを過ぎて時代小説にはまってしまい、推理小説やその他のジャンルの本はその合間にしか読まないようになった。だからたまに推理小説を読むと「なんと血なまぐさい話なんだ」とさえ思う時がある。だから、そのような場面の出てこない光原百合や北村薫の作品が好きなのだけど。なぜ、時代小説にはまってしまったのかというような話は、時代小説の書評を書く時に譲って、今回はこの「クローズド・ノート」について書く。 この作者は好きでNo17の「火の粉」を読んで以来、発行されているほとんどの本を読んだ。そして、今回本屋でこの本を見つけてさっそく購入した。これは、携帯サイトで約1年間配信された作品を加筆・訂正して本にしたものだ。だから、帯には携帯サイトで連載中に届いた読者の声が載っている。ハッキリ言って、私はこの本の半分も読まないうちに、このストーリーのトリックというか構成がわかってしまい(私がわかったぐらいだから、読者の多くがわかったと思うし、そのために主人公はちょっと「天然」の入った、物事に気がつきにくい役柄に設定してあるのかと思った)いわゆる「落ち」の内容も想像できたのであるが、それでも最後の場面は感動的で涙が流れた。内容としては、教員をめざす女子大生が、前に住んでいたその部屋の住人の忘れ物であるノートを見つける。それを読むことで、自分自身の様々な出来事に振り回されながらも、前の住人の1年間を追体験するという構成だ。何てことないようなストーリーなのに、そして最後の場面も十分予測がつくのに、最後の最後で語られる言葉にしびれる。やはり、雫井脩介は裏切らないという思いを新たにした。 (角川書店 「クローズド・ノート」 1500円+税) |
No19 「静かな大地」 池澤夏樹 2005.9.6 アイヌ民族に関わって書かれた本を私はたくさん読んだ。初めて読んだのは11歳の時の「コタンの口笛」である。あれ以来、たくさんの本を読んだ。その本は小説でもあったし、評論やルポルタージュもあった。 ずいぶん昔になるが、1986年9月に、当時の中曽根総理が衆議院本会議で「日本は単一民族国家であるので…」という発言をした。このアイヌ民族などを無視した発言(日本にはアイヌ民族のほかに、ウィルタ、ニブヒの人達がいる)に、当時、全国から抗議が殺到した。「関東ウタリ会」の公開質問状には、「北海道庁が発表した実態調査では6704世帯24168人のアイヌが北海道に住んでおり…東京都の実態調査では401世帯、689人のアイヌが東京に住んでいる。」と書き出された質問状は、長いアイヌ弾圧の歴史を述べ、「北海道旧土人保護法」の廃止(運動の結果、1997年廃止)と、それにかかわる「アイヌ民族に関する法律」制定の運動をすすめていることを語った。そして次のように詰問していた。「このような状況が厳然としてあるにもかかわらず、再々『単一民族国家』といわれる貴殿の発言の根拠をお示し下さい。」 北海道高教組が編集した『生徒とともに考える日本の少数民族』(1982年)の中には、あるアイヌ女子高校生の手紙が載せられている。「私は小学校三年生くらいから現在まで、同級生、あるいは口の悪い上級生、下級生に“アイヌ”と言われ差別されて、ひどい意地悪をされています。…小学生のころは雑巾をぶつけられたり、けとばされたり、中学生の頃は、私がそばを通っただけで、ゲボ−と吐くまねをし、すこしでも身体が触れたときなどは、ばい菌でもうつるかのようにすごい騒ぎようです。」被差別体験をかたる人の「貧乏は辛い、しかし差別に耐えることはもっと辛い」という言葉は、私達の胸を刺す。 日本政府は明治維新以後アイヌ人にたいし、同化政策を押し付けてきた。これは、在日朝鮮人に対して行なってきたのと同様である。同化政策とは、支配民族が被支配民族固有の生活習慣や、文化を禁圧し、自分たちに従うことを強制する政策である。 アイヌ民族に関わっては、最近、この本とは別に「上西治郎短編全集」(値段は高かった)を読んだ。「コタンの口笛」にしても「上西治郎短編全集」にしても、アイヌの視点を通して書かれているのに対して、この「静かな大地」は、和人の側から、それもアイヌの人たちに好意的な目で書かれているという違いがある、。多くの場合「侵略者」として(もちろんそんなことは文章のどこにもないが)北海道をいかに開拓したか、それもすさまじい困難な状況を乗り越えて今の発展をもたらしたかという本はある。しかし、アイヌの人たちが自ら暮らしていけるように農場を作り、それがそこそこ発展して短い繁栄をもたらしながらも、結局は没落していく和人の姿を描くといったような視点で書かれた作品を、私はこれしか知らない。本の厚さ(629ページ)と内容(和人である私にとって、しんどい話だろなという予感)で、なかなか読み始めることができなかったが、読んでみると内容にぐいぐい引き込まれ、読み切ってしまったと同時に、ぜひともホームページに感想をアップしなければならないという気持ちに変わっていた。 (朝日新聞社 「静かな大地」 2300円+税) |
No18 「夜のピクニック」 恩田陸 2005.6.12 この本は第2回本屋大賞を受賞した本である。また、第26回吉川英治文学新人賞も合わせて受賞している。第1回の本屋大賞は、この下のNo3にも書いている小川洋子の書いた「博士の愛した数式」である。この本屋大賞というのは、全国の書店員が「いちばん売りたい本」を投票して選ばれた本に与えられる。物語の内容はある高校で毎年修学旅行の代わりに行われる80Kmの夜間歩行(「歩行祭」とよんでいる)を綴ったものである。その高校の3年生数人の、夜間歩行が始まってからゴールするまでの心情が書き込まれている。誰もが通り過ぎてきた(これからという人もいるだろうし、今真っ最中という人もいるだろうが)青春の1ページを鮮やかに描かれている。大人になった私たちがどこかに置き忘れてきた物を、鮮やかな断面として切り出してみせるその手法はたいしたものだと思う。「大人になって、子ども向けや青春物を書けるというのは、純な心を無くさない人にしかできない」と言った人がいるが、まさにその通りだと思う。 その時(青春のまっただ中で人を好きになった時など)にはあまり考えないけど、あとから振り返ってみると、何であそこまで、打算も抜きで一生懸命になれたのか不思議に思うことがある。そして、そう思った時には、もう2度とそんな気持ちになることはないということに気が付く時である。だからこそ、青春小説は、取り戻せない過去を惜しむ気持ちでよけいにノスタルジアな気分に浸らせるのかもしれない(下に書いたNo13の川上健一の「翼はいつまでも」も同様である)。 ただ、この作品は、私はもうひとつのめり込めなかった。それは、書いている側に「大人の視点」を感じてしまうからだと思う。この、恩田陸という人は1964年生まれで10年以上も前からもう何作も作品を世に出している。私も何作も読んだ。(私は初め、この人は男の人だと信じ込んでいたが、ある時(最近)女性作家のアイソロジーに作品が収録されているのを見てやっと女性だとわかった。)しかし、何か私はもうひとつ好きになれない。今まで読んだこの人の本の中ではこの本が一番共感出来たが、それでも「昔の高校生だった頃の自分を思い出しながら今書いています。」といった感じがぬぐいきれないのだ。もちろん、高校生には筆力がないし、筆力が付いてから書けば、昔のことを思い出して書くという形になることは免れ得ないのであるが、それでも川上健一の「翼はいつまでも」などを読めば、今も目の前を主人公が走り回っているような気がするのに、この作品はどうもそういった気がしない。そのように(大人が過去のことを振り返ることを)意識して書かれた作品なのかもしれないが、取り上げられている内容が良かっただけに、描き方に私は不満が残った。 (新潮社 「夜のピクニック」 1600円+税) |
No17 「火の粉」 雫井脩介 2005.5.4 久しぶりに、途中で止められなくなって2時までかかって読み通した。「幻冬舎創立九周年記念特別作品」と帯にあるこの作品は中古で手に入れた。この人の作品は初めて手にしたものだが、上下二段組で300ページ余り(原稿用紙に直して730枚)となるなかなか読み応えのあるものだった。 推理小説なので、なかなか内容に触れるのは難しいが、簡単に書くと、自白した被告人(裁判では否認)に、無実判決を下した裁判官が主人公である。その判決後裁判官を辞め、大学教授となるが、その隣に無実判決を下した男が引っ越してくる。それから様々なことが起こるのだが、そのことにこの男はどのように絡んでいるのであろうか。また、家のまわりをうろうろする男や公園でしきりに喫茶店に誘う女など誰が善人で誰が悪人か(誰がだまそうとしていて誰がだまされているのか)最後までわからない。それがこの作品を最後まで読み通させた最大の理由かもしれない。 また老人介護の問題も鋭くえぐる。何もしない大学教授、献身的な、しかし一生懸命突っ張るその妻、時々来てかき回す大学教授の姉など一人の老婆を巡ってのやりとりもよく書き込まれている。 この人の別の作品も手に取ってみたくなるような小説であった。 (幻冬舎 「火の粉」 1600円+税) |
No16 「希望」 乙川優三郎 2005.5.3 No2の 「武家用心集」でも書いたが、この乙川優三郎は、最初読んだ時にはそんなに印象に残ってない(今もこれを書く時に、以前何を読んだかなと調べた)。しかし今回も楽しませてもらった。今回は「著者初の連作シリーズ」と銘打った「むこうだんばら亭」という本であった。銚子の地で漁師と醤油造り職人相手の小さな飲み屋「いなさ屋」で繰り広げられる喜怒哀楽を描いたものだ。また、この店には裏の家業(女稼ぎ)がある。この店の主人孝助と、一緒に暮らす「女将」のたかを中心にこの物語は巡っていく。 この本には8つの短編が収められているが、その中でもこの「希望」が一番良かった。この店に男と女が流れ着いてくる。かつてはこの女に入れあげた男ではあったが、金がなくなると女は男を厄介者として扱う。別れてしまいたいとも思うのだけど、自分がいなかったらこの男はやっていけないとも思い、別れられないままズルズルと続いている。どちらもなんとかしたいと思い続けているのだが、どうにもならないまま、日々を送っている。しかし女は、身を売ってお金を稼ぎ続ける。 この孝助はそんな二人に踏ん切りを付けさせる。その踏ん切りの付けさせ方が見事だった。それが私がこの作品集の中でもっとも引かれた部分である。それ以上のことはこの作品を読んで自分で感動を味わって欲しい。 (新潮社 「むこうだんばら亭」 1500円+税) |
No15 「あぶない脳」 澤口俊之 2004.11.15 これまでこの欄に書いて、そのほとんどが小説(中には旅行記、私小説的なものもあったが)である。しかし、今回のこの本は全くこれまでの路線とは異なっている。この本は「脳」について書かれた極めてまじめな(?)脳科学の本である。しかし、堅い(?)本でもあるにかかわらず、私はこの本をほとんど一気に読み通した。それは、難しいことを筆者独特のユーモアを交えて書かれているからである。確かに私は理科系の人間で、いわゆる文化系の人よりはこういった内容によけいに興味を持つのかもしれないが、ある時は教育問題を鋭く脳の仕組みから切り、またある時は、ブームというものを脳の本質からわかりやすく解説するというものであった。こんな事を書くと、それは脳の仕組みに興味があるからそう思うのだろうと言われそうだ(確かに私は養老孟司先生の本も好きだ)が、脳のことがわからなくてもこの本はおもしろい。 『あまりに自分流の研究や言動が多いので、世に誤解の種をまくことも少なくない。一見トンデモないもの言いや自説を出すのも得意だ。インターネットなどを見ると、私への悪口がたくさん流れている。「へん、勝手に批判していればいいってなもんだ。私は自分の道をゆくもんね」と思っているが、それだとなかなかうまくゆかないことも多い。』と書いている。しかし、その10ページほど後で、『「キムタク」と聞くだけで虫唾が走る。まったく、30過ぎて中身のないオトコは悲惨だ。』とも書いてある。またその前にはベストセラー本の『「捨てる!」技術』という本をめちゃくちゃけなしてある。これでは澤口先生が書いておられる『誤解の種をまく』とばかりも言えず、インターネットで攻撃されるのも当たり前かと思ってしまう。 その他にもジェンダーの問題、同性愛、犯罪にいたるまで脳の仕組みから解き明かそうとしていて、括弧書きの一人つっこみを読んで笑っているだけでは済まない気になってくる。理系の人も文系の人も手に取ってみれば楽しめる本であることは間違いない。 (筑摩書房(ちくま新書) 「あぶない脳」 700円+税) |
No14 「邂逅の森」 熊谷達也 2004.11.3 この本の帯に「第131回直木賞受賞!」とあった。元来私はひねくれ者で、今売れに売れている本(ベストセラーとか)賞を受賞した本などはブームが沈静化してから読むか、全く読まないかとどちらかである。しかし、たまにはその本が話題になっている時に読むこともある(「バカの壁」などはその典型だ)。今回直木賞受賞にもかかわらず、この本を手に取ったのは、帯にあった「人と熊との闘い」という内容に引かれてのものだった。どういうわけか今年は熊が人里に降りてくることが多い。台風の影響で、餌となるドングリが早くに落ちてしまって食べるものがないせいだと言われているが、本当のところはどうかよくわかってはいない。その熊の気持ちに少しでも近づけるかと思いこの本を手に取った。 全編、熊と人との闘いだった。特に最後の「ヌシ」との闘いは鬼気迫るものであった。雪山で、かすかな痕跡をたどりながら熊を追いかける。そのだましあい、だまされあいが熊を身近に引き寄せていった。そっして、長らく守られ続けた「山の掟」。この掟を破った時には、進んで熊の前にわが身を投げ出そうとする主人公の潔さ。これがこの小説を迫力あるものにし上げている。 こんな優れた本を読むと、自分も実際に雪山に踏み込んでみたくなるのだが、それは叶わぬ夢に終わりそうであるからこそ、人は本を読むことでの疑似体験を尊ぶのかもしれない。 (文藝春秋社 「邂逅の森」 2000円+税) |
No13 「翼はいつまでも」 川上健一 2004.10.2 いわゆる青春小説に分類できる作品である。私が高校時代、国語の先生に「何の小説が好きか」と聞かれて「野菊の墓」と答えたらいかにも馬鹿にされたような言われ方をしたのを覚えている。確かに「野菊の墓」は文学的には評価の低い作品かもしれないが、高校時代の多感な時期に(読んだにはそれよりずっと前だが)そういった作品が「いい」と言えるのは、今でもすばらしいことだと思っている。他にも、高校時代の模擬試験の国語の問題で、辻邦生の「落葉のなか」という作品の一部が出題されたことがあった。私はこれに熱中して、問題をやることもそっちのけで何度も何度もこれを読みふけっていた。そして、もちろん模擬試験が終わってから、文章全部が読みたくて本を探した。するとこの本は、「黒部の羆」の中で触れた「ある生涯の七つの場所」の第1巻の中の「赤い場所からの挿話U」として収録してあった。また私はこの短編を何度も何度も読み返した。 年を取ってからそういった「青春小説を書くことができる人は、少年時代の純粋さを無くすことがなく、大切に胸の中にあたためることができた数少ない人だと思う。こういう作品を読むと、人は「甘酸っぱいセンチメンタルな気分に浸る」と言う。自分が大切にしながら、いつしか忘れ去ってしまったものを思い出させてくれる作品だからだろうか。それとも現在の生活に不満があり、あの時、もっと違う選択肢を選んでいたら、もっと違う人生が待ち受けていたと思うからだろうか。 剣名舞という人の書いた「ザ・シェフ」という劇画に次のようなフレーズがあった。 「本当に男女が愛し合っている・・・・と確信出来たのなら、たとえどんな困難や反対があっても、決してくじけてはいけない。何故なら心からお互いを信じ合える時は、一生の中でそう何度もないのだから・・・」 人生も後半となり、「感動」とか「ときめき」にめっきり縁がなくなってきたが、こういった優れた作品を読むことで、昔を振り返るにいい年になってきたのかもしれない。 (集英社 「翼はいつまでも」1600円+税) |
No12 「黒部の羆」 真保裕一 2004.10.2 この人の本は数多く読んだが、今回は「乱歩賞作家」の書き下ろし作品をまとめた「白の謎」「黒の謎」「青の謎」そして本書が収録された「赤の謎」のシリーズの中の1冊のまたその中の1編として読んだ。 今回の名前の付け方で「赤、白、黒、青」というのは、作品の中でその色のものが、大きな役割を果たすのかなとも思ったが、あまり意識して読んでいなかったので、色の付いたそういった小道具はあまり気がつかなかった。そのような試行の作品としては、辻邦生の「ある生涯の七つの場所」という作品があった。これは虹の七色の色を使った作品をそれぞれ14ずつ書き、それにプロローグとエピローグを加えた100の短編でできていて、短編としても読めるし、連作としても読めるようになっていた。とっても気に入った作品もあったが、全体としての印象は薄い。 真保裕一の作品としては、「ホワイトアウト」が有名だ。この作品も、出てあまり間をおかずに読んだ。すごかった。同じ頃、夢枕獏の「神々の山嶺」を読み、これも感動した。やはり、山岳小説で極限状態に追い込まれて、そこをどう脱出していくかというのは、自分はできないけれどもワクワクするものがある。 この「黒部の羆」は山岳遭難救助のことを描いたものだが、救助される側、救助する側それぞれの背景を丁寧に描き、その生き様がクロスする場面を氷壁の上に描き出している。その一瞬の交わりが、一瞬では終わらないで、その後複雑に絡み合っていくところなど、筆者の力量を示している。 山岳小説といえば井上靖の「氷壁」や新田次郎の作品群などにはじまるが、それ以降たくさんの作品が生まれた。「山に登る人に悪人はいない」といわれた時代もあったが、今や山は推理小説の場面として頻繁に登場するようになった。私もこの夏北アルプスの西穂岳に登って山の景色を満喫したが、山は何度行ってもいいものである。でも忙しさと往復の旅費や宿泊費の関係でなかなか毎年というわけにはいかない。1000円あまりで山に入った気分を満喫できるこういった優れた山岳小説をもっともっと読みたいものである。 (講談社 「乱歩賞作家 赤の謎」1800円+税) |
No11 「天下城」 佐々木譲 2004.6.22 安土城を作った(といっても、石垣、土台部分だが)戸波市郎太の一生を、上下2巻で書いた小説である。中国新聞の書評欄で読んで気に入り、さっそく買って読んでみた。戦に敗れて武田の捕虜となり、金山で働かされていた市郎太だが、ある時合戦の最中に逃げ出し、三浦雪幹という軍師に出会って「落ちない城」を理想に学んでいく。中国の築城集団「墨子」にあこがれ、やがては石積みの穴太衆(あのうしゅう)に身を投じて頭角を現す。最後は織田信長に頼まれ、安土城を造るも、本能寺の変で織田信長が亡くなると、栄華を誇った安土城もも炎に包まれる。自分のやってきたことは何だったのかと振り返り、虚無感に襲われる市郎太。しかし、私には市郎太のたどってきた一本のくっきりとした道が見える。 前半は特におもしろかった。合戦で敗れ、落城を経験し、捕らわれるも、そこから自分の力で自由をつかみ取っていく様子は活劇を見るようで、胸を躍らせた。また師と一緒に全国を歩き回る姿は、映画「砂の器」で、主人公がおじいさんと一緒に旅をする時の、その厳しさと共にあるあたたかさを思い出した。 一芸に秀でるということは、その裏には血のにじむような努力があるに違いない。そんな人だからこそ、後世に物を残し名が残るのだと思う。私は何を残すことができるのだろうか?半分以上の地点まで来てしまった己を顧みつつ、暗澹たる気持ちに陥っていく自分がある。 (新潮社 上・下各1800円+税) |
No10 「雷桜」 宇江佐真理 2004.3.28 この小説の題になっている「雷桜」とは、銀杏の木に雷が落ちて幹が裂け、そこから芽吹いて大きくなった桜の木のことである。その桜の生長と共に、この物語は趣を深くする。 隣家の庭の紅梅の古木が、この冬の大雪でいくらかの枝が折れた。その折れた枝を先週取り払われた。山里のこの辺りでは、ようやく梅が花を付け始め、折れた枝にも梅のつぼみが付いていた。今日見たら、その折れた枝をやはり庭先にあった人の背丈ほどの紅葉の木の途中に立てかけてあった。それがちょうどうまい具合に枝と枝が絡まり合って、少し見たぐらいでは普通の梅の木が花を付けているように見える。やがては枯れてしまう紅梅が、紅葉の枝の上で最後の花を咲かせている。 ![]() また夕方、梅林の中にさまよい込んだ。30本とも50本見える紅梅に、今にも沈もうとする夕陽があたって、この世のものとも思えない神秘さを醸し出していた。 なぜ梅のことばかり長々と書くかといえば、私が桜より梅の方が好きだからだ。しかし、桜もまんざら捨てたものでもない(もちろん多くの日本人は梅より桜の方が好きなのであろうが・・・)。春の夕暮れにぼんやり浮かび上がるピンクの固まりには、どこかしら怪しげな雰囲気が漂い流れる。やはり桜の木の下には死体が埋まっているから、あの妖艶な雰囲気が・・・・(これでは褒めていることにならない?)。 この作品は純度の高い恋愛小説なのかもしれない。そして、必ずしもハッピーエンドで終わるのではなく、すさまじいまでの自己規制から別々の道を歩まざるを得なかった二人の葛藤が、美しい山間の農村を舞台に描かれている。文庫本の裏表紙の作品紹介にある「凛として一途に生きた女性」である遊にうらやましさを感じると同時に、哀れさも覚える。 (角川文庫 552円+税) |
No9 「真夜中のサクラ」 小林ゆり 2004.3.27 本来的には私の好きなジャンルの作品ではない。ドラッグクイーンなんて、何のことか知らないぞ。もちろんその後(筑摩書房の書籍案内で解説を読んだ後)インターネットで調べた。その結果わかったことは、ドラッグクイーンとは『薬のDrugじゃなく、Drag Queenとは女装した男性のこと。ピンクや赤のヒラヒラドレスや、モノトーンの短くてタイトなドレスを身につけセクシーな姿、また赤いチェック模様の「不思議な国のアリス」系衣装をまとった人びとなど』というような解説がある。ドラッグクイーンって、『ゲイ?』。私とは縁のない世界だと思ったこの世界の本を手に取るきっかけとなったのは、その書籍案内にあった『第19回太宰治賞受賞作』という文字。もちろん、そういった権威を基本的に重視しない私(事実今年売れに売れた芥川賞2作品は、読むことはおろか、書店で手に取ってさえいない)であるが、そうはいってもこのような『じみ』な賞(私が知らないだけ?)をもらうということは、話題を作って売るための賞ではなく、ある一定水準をクリアしているのではないかと思ったからだ。そういえば、芥川賞以上に売れた「バカの壁」は読んだ。もともと養老 孟司が好きでよく読んでいたということもあるが、なぜにあそこまで売れたのか(これを各時点で、180万部を越えている)確かめてみたいという気持ちもあった。読んだ感想といえば、『難しかった』。小泉首相も『絶賛』しているというあの本、私には難しかった。200万部に近い売り上げを誇るあの本が『難しい』と、全世界に開かれているこのホームページで報告する私って、全世界に向かって『私はバカです』と宣言しているのと同じ?でも本当に、あの本を手に取った200万人(図書館で借りた人もいると思うのでそれ以上)は、書いてあることがわかったの?それ以前に、全部読んだ?私は、最後まで読み通したぞ!(自慢にならないって)まあ、興味がある部分、おもしろい部分も幾分あったけど、全体を通して『難しい』というのが私の感想だった。 閑話休題 『不細工』を自認し、それゆえ、引っ込み思案の主人公「サクラ」がふとしたことから知った「ドラッグクイーン」の世界(本の中には次のような記述がある。「ドラッグクイーンとゲイは同義語ではない。女のドラグクイーンもいるとのこと。」詳しくは本を読んでみてくれ。しかし、読み終わった私にもよくわかってはいないが・・・。)に引き込まれていく。その世界を知ったことから、自省が始まり、生まれ変わっていくという『よくあるストーリー』なのだが、自分の奥へ奥へと踏み込んでいく思考の遍路には引きつけられるものがあった。 またいつものように、本の内容とは全然関係ないことばかりを書き続けた書評となった。だいたいこのページを読んでいる人なんて、本当にいるの? (筑摩書房 1300円+税) |
No8 「紫のアリス」 柴田よしき 2004.3.21 アリスというと何を思い浮かべるだろうか。作者のルイス・キャロルは「不思議な国のアリス」「鏡の国のアリス」などの他にも本を書いている。数学書の『行列式の凝縮』などである。実はキャロルは数学者なのだ。また、写真家としての一面も持っている。 アリスの「不思議」な世界(観)は、後の世の多くの本で引用されている。私の好きな本の一つに加納朋子の「螺旋階段のアリス」がある。これなどその一つだが、これ以外にも、数えられないくらいアリスにまつわる小説を読んできた。誰でも知っていて引用しやすいということもあるだろうが、それ以上にこの世界観に多くの人が引きつけられるのであろう。 この「紫のアリス」もそういった世界観を大きく取り入れた作品に仕上がっている。私自身の好みでいえば、とことんリアリティを追求した作品の方が好きなのだ。しかし、これはわざと『幻想』を抱かせるような作りになっているにもかかわらず、私はそれなりに楽しめる作品に仕上がっていた。 そして何よりも、読み終わって解決されない疑問が残った。疑問が解決されない推理小説としては、東野圭吾の「どちらかが彼女を殺した」が有名だが、30年ほど前に読んだカトリーヌ・アルレーの「わらの女」には度肝を抜かれた(これは疑問というよりも、不条理だが・・・)。 推理小説なのでこれ以上内容には触れないが、細かく入り組んだディテールを綿密にくみ上げていくような作品は私が最も好きな作品のスタイルである。つまり、他の人の考えや行動の先を読んでいて、それに落ちなく的確な仕掛けを施していく、そういった本を私はたくさん読みたい。もっといえば、そういう行動を現実に取りたい。そういう作りの本ではサラ・ウルフの書いた「死の長い鎖」を上回るものはないと思っている。 柴田よしきは「少女達がいた街」を読んで好きになり、「禍都」「炎都」「遙都」の三部作や「桜さがし」、他にも猫探偵シリーズもたくさん読んだ。そして、この本を私は古本屋で税込み230円で手に入れた。これはなかなかもうけものだった。 (文春文庫 457円+税) |
No7 「深夜特急」 沢木耕太郎 2004.3.6 NO6の「無名」を読んで、沢木耕太郎の本を探した。古本屋で「チェーン・スモーキング」を見つけて読んだ。エッセイ集だったがおもしろかった(この「が」は私が本来エッセイよりは小説がとてつもなく好きなことを表す「が」である)。そして、沢木耕太郎といえばこの「深夜特急」といわれるくらい、この本を抜きにしては沢木耕太郎は語れない。私も早くからこの本は注目していて「必ず読むぞ!」という本であったのだ。しかし私の中に、この本がシルクロード(しかも中国)を中心に書かれた物という誤解があって、手に取った時に初めてその勘違いに気が付いた。シルクロードもアフガニスタン、イランなどが出てくるだけで、主には東南アジアから中近東を経てヨーロッパに至る旅を書いた物だということがわかり、この本を棚に戻したことがあった。そして、今回やっと読み始めた。おもしろかった。6巻をわずか3日ほどで読み切った(もっとも、1冊200ページ余りの薄い本ではあったが・・・)。 この本を読んでいて、感じたことはいろいろあった。少しそのことを書いてみたい。まず最初に思い出したのは、初めて中国に行った時のことだ。上海に少し寄り道して西安に行った。空港に着いた時にはもう暗く、そこから市街地まで50Km以上の道を1時間以上かけてバスで行った。街灯などもなく、時々通り過ぎる道のほとりにある家は、どうやら土(煉瓦?)で作った四角い箱のようなものにしか見えず、それも暗い。そして、夏のことでものすごく多くの人が外に出て涼んでいるのであるが、それもほとんど光のないところで、時々ヘッドライトに光に浮かび上がる思いの外多いその人影は、私たちをドキリとさせるに十分な物であった。とんでもない所に来てしまったという思いを抱いたが、ようやく町中に入ってホテルに着くとそこは極めて近代的なホテルであった。そして夜が明けてみると、長安と呼ばれていた昔から(といっても、今の位置とは若干違うらしいが)中国の代表的な都市で、100万人以上を抱える近代的な都市で、大きなビルもたくさん建っていた。前夜に見たものは夢だったのだろうかという思いを抱かせるに十分な長安の夜明けであった(と文章には書いたが、実際に起きたのは、夜明けとはいえない時間だった)。中国のことは、香港(この本の当時はまだ中国ではなかったが)しか出てこないこの本を読んでいて、そのことを思い出した。 その次には、この本にたびたび出てくる「空のあおさ」だ。新潮文庫の第4巻116ページに次のような文章がある。『バスを降りると、朝の風が冷たく快かった。弛緩した体を引き締めてくれるようでもあった。ペルシャの朝の風は、そのモスクの屋根の色と同じように、深い蒼色(あおいろ)をしているようだった。乗客たちはその風の中を思い思いの方向に散っていく。』という文章がある。中国にいった時に、チベットで見た空のあおさ(これはやはり「蒼さ」がぴったりする)を私は忘れることはできない。そしてトルファンで見たモスク。もう二度といくことはないかもしれないが、人生の一コマとして私の中にいつまでも残るに違いない。 3つ目に考えたことは、旅と読書が似ている所があるかもしれないと考えたことである。私は上にも書いたようにこれまで小説だけでも四千冊余りの本を読んだ(今そのリスト作りをしているが、十分の一もできないうちにややばて気味)。しかし、その多くが一度しか読まない。基本的に余り再読はしないし、今では読み終わった本でさえ、とっておきのものを除いて、早々に処分してしまう。旅ももしかしたらまたくることがあるかもしれないと思いつつも、たいていの場合、最初で最後の体験となってしまう。しかも、それが外国となればもはや当たり前である。私も年を取るごとに、その思いが深くなっていく。感じる時が今しかないと思えば、その体験そのものが貴重になっていく。それは観光地を残らず回っていこうというのとは、また違った思いだ。行く所は少なくとも、この感じを大切にしようという思いである。「また来ることもあるだろから」ということで、いい加減にしたくないということである。本も、たぶんこの本は二度と読むことはないと思うのである。私の人生で、このフレーズとは最初で最後の出会いなのだと思うと、おもしろくない本でも、なかなか読み飛ばしていくことが難しくなっていく。お茶の世界ではそういったことを「一期一会」というらしいが、この言葉がいろいろな所で、安易に使われすぎたので、私はこの言葉は好きではない。 人生半分以上も費やして、やっとそのことに気が付いただけなのかもしれない。今まで読んだ四千冊をもうどのようにしても全部は読み返すことはできない。それならば、新しい出会いを求めて、また今日も新たな本を手に取るだろう。 (新潮文庫 400円〜438円+税) |
No6 「無名」 沢木耕太郎 2004.2.6 No1〜No5まで書いてきたのはすべて小説だ。しかしこの「無名」は筆者が自分の父のことを書いた自伝的作品と呼ぶべきものなのかもしれない。この沢木耕太郎という人の作品としては『深夜特急』のシリーズが刊行されていることを知っていた。ただし、まだ読んだことはない。読もう、読もうと思いながらも、まだ手に取るチャンスがないままにこれまで来た。 今回この本を手に取ったのは「たまたま」だった。しかし、読み進めるうちに、だんだんと引き込まれていった。内容は、父が発病してから亡くなるまでの晩夏から晩秋にかけての日々を淡々と綴ったものであるが、そこには自分の生い立ち、そして父の生い立ちを静かに見つめ続ける筆者の端麗なまなざしが行間から立ち上ってくるようであった。 私より十歳ばかり年上の筆者に近い何かを私自身が持ちうるようになってきた証かもしれない。 ぜひとも今度は『深夜特急』を読んでみようという思いを新たにさせてくれる作品であった。 (幻冬舎 1500円+税) |
No5 「午後の行商人」 船戸与一 2004.2.6 久しぶりにハードボイルドというか、冒険小説を読んだ。この人の作品は、前に「山猫の夏」という本を読んで、大いに「血湧き肉躍る」体験をしたことがあるのを思い出した。本来私は「安楽椅子探偵」にあこがれていて、「座ったままで推理して、それがぴたりと当たる。」というのを理想にしているため、こういった「銃はぶっ放す、人は裏切る」といったような『野蛮な』小説は好きではない。ただ、この人の本は読むに値する数少ない作家の一人であることは間違いない。 そしてこの小説を読んで、私の尊敬するウイリアム・アイリッシュの「黒衣の花嫁」を思い出した。この作品を映画で見て感動し、小説を読んで好きになった。ウイリアム・アイリッシュの翻訳されている本は、ほとんど読んだ自信があり、また読み終わった本のほとんどを手放した私だが、この人の本だけはすべて手元に置いている。こんな復讐の話が私は好きなのかもしれない。 これを読んで、メキシコに行ってみたくなった。ぎらぎら光る太陽の下、明日のことを思い煩うことなく、旅ができたら、そこには少々危険があっても最高なのかもしれない。そうしたら、この小説にもあったように、街角からひょいと復讐に命を燃やす行商人が出てくるに違いない。 (講談社 2100円+税) |
No4 「紫陽花」 宇江佐真理 2004.1.24 NO2の「武家用心集」の所でも書いたが、最近は北原亞以子、宇江佐真理をよく読む。その中の1冊「余寒の雪」に収められた1編である。 近江屋のお内儀のお直は、もと吉原にいた。その頃、一緒に働いていた梅ヶ枝が亡くなったとの知らせが来た。お直は旦那と一緒にお歯黒溝のそばでそれを見送る。 その時、お直はある勘違いに気がついて愕然とするが、そんなお直に周りにいるものは何一つ気がつかずに、あたたかく見守る。お直は一人、水に投げ捨てられた紫陽花をいつまでも見送っている。その切なさが、たまらなくいい。その勘違いとは・・・・・読んでみてください。 この人の作品では他に「髪結い伊三次捕物余話」のシリーズも好きだ。決して読者にこびてないような気がする。だから読んでいても、新しさを感じるのかもしれない。まだまだ未読の本が多いので、これからが楽しみだ。 (文春文庫 552円+税) |
No3 「博士の愛した数式」 小川洋子 2004.1.1 この小川洋子という人は、1991年に「妊娠カレンダー」という小説で第104回芥川賞を受賞した作家であることを、私は奥付の作者紹介を読んで初めて知った。出身学部も早稲田大学の文学部だし、主な著書のリストをみても数学とは全然関係ないような作品ばかりなのに、この作品を読んでみると、数学のことがそれなりにわかって書いている。数学を随分勉強したのだなということが感じられた。 読み始めたときには、数学者の定理などの発見するまでの苦悩を書いた作品かと思っていたが、良い意味で期待は裏切られた。この作品のモチーフになっている事柄は、かつて北村薫の作品で同じような現象を扱った物があったことを思い出させた。しかし、北村薫の作品は、いかにも現実離れしていて、実際には起こりそうにもない事柄だったが、この小川洋子の作品はこんな事もあるかもしれないと思い起こさせるものだった。少し傾向は変わるが、昨年有名になった映画「ビューティフル・マインド」を思い起こさせもした。 内容に少し触れると、主要人物である「博士」は80分しか記憶が持続しない。文中で義姉はそのことを次のように述べている。「頭の中に80分のビデオテープが1本しかセットできない状態です。そこに重ね録りしていくと、以前の記憶はどんどん消えていきます。」その天才数学者と主人公、そしてその一人息子との交流を工夫を重ね、時には挫折を繰り返しながらも、崇高に描ききっている。読後がすがすがしい作品に仕上がっている。 (新潮社 1500円+税) |
No2 「武家用心集」 乙川優三郎 2003.12.31 いつもの本屋さんに勧められた、「この本はいいよ」と。この人はそんなに嫌いではないけど、進んで読もうとも思っていなかった。ところが「武家用心集」を読むと、この人の書くものに対する見方が変わった。良かった。これもNo1で書いた歌野晶午と同様「化けた」のかもしれない。 そもそも私は歴史小説はいくらかは読んでいたが、本格的には年を取ってから(60を過ぎて)読もうと思っていたが、最近は歴史小説ばかりを読んでいる。就職して20年あまりは、いやそれ以前から推理小説が読書体験の中心になりつつあったが、ここ1年ばかり宮城谷昌光や陳瞬臣を中心に中国に題材を取った作品をたくさん読んできた。特に宮城谷の作品はほとんどを読んだ。読み尽くしたとき、推理小説に戻るのではなく、歴史小説に行ってしまった。もちろんそればかり読んでいるわけではないが、最近は池波正太郎、柴田錬三郎、北原亞以子、宇江佐真理などを古本屋(たまには新刊の文庫も)から探してきて読んでいる。(今回も長い前書き) この乙川優三郎はこれまで「屋鳥」、「喜知次」を読んだが、それとはこの「武家用心集」は格段に良かった。短編集であるが、その中でも「しずれの音」が特に心に残った。人間の背負っている業に付いて考えさせられる作品で、どうしようもやりきれなくなる場面が続きながらも、最後に救いがある。 (なぜか前書きは思い切り長いのに、本文は短い。まあ、実際にその本を手にとって読んでみないと、ここでいくら書いても「意味がない」という思いがあるからかもしれない・・・・・それなら題名と筆者名だけにしろって・・・・実はこの長い前書きを書くのが目的だったりして・・・本文に比べて、長い後書き) (集英社 1500円+税) |
No1 「葉桜の季節に君を想うということ」 歌野晶午 2003.12.31 この本を手に取ったきっかけは、2004年度版の「このミステリーがすごい!」の第1位に選ばれたのがきっかけである。今年で16冊目となる「このミステリーがすごい!」を私は毎回購読している。(といっても、第1冊目は買い損ねたので、私の持っているのは15冊である)必ずしも私の趣味と、一致しているわけではないが、ベスト10,ベスト20の中には私が読んでない本で、読んでみてもいいかなと思う本があるのは事実である。そして、実際に読んでみて満足することも多い(もちろん裏切られることもあるが・・・・。)。またベスト10に入る本はほとんどがハードカバー(つまり価格が高い)で出ていて、主に文庫本を購入する私(本は飾りではなく、本当に読むために買う私)にとっては、高い本を買うときの一つの指標になるのは事実である。そういったことで、2004年度第一位の「葉桜の季節に君を想うということ」を買って読んだ。ちなみに99年から03年までの5年間、第一位になった本のうち、2冊(しかも1冊は図書館で借りた)しか読んでない。 歌野晶午はデビューした頃(1988年頃)読んだことがある。ちょうど、綾辻行人(綾辻の辻の字は本当は点が2つだが、字が出ない)に代表される「新本格派」ブームが起こり、私の趣味とも一致していたので、綾辻を初めとして有栖川有栖、法月綸太郎、そしてその親分格である島田荘司、そして少し路線は違うが京極夏彦などを読みふけった。そしてこの歌野晶午、デビュー作の「長い家の殺人」を読んだ。 しかし、これは私でもトリックがわかってしまった。私は推理小説は好きで、相当数読んだが、トリックがわかったり、あてずっぽうでなく犯人がわかったりすることはほとんど無い。ところがこれは簡単にトリックがわかってしまい、それが正しかった。そこで一気にこの作家に対する興味が失せた。古本屋で「白い家の殺人」「動く家の殺人」なども買って読んだ気もするが記憶にほとんど残ってない。そういうことで、あまりこの作家には期待はなかったのだが、「本格ミステリ・ベスト10」の第1にも選ばれたとあったので、「大きく化けた」のかと思い、この本を手に取った。(以上が長い前置き) 400ページの本で350ページまで読んでも、それなりにストーリー的に面白い本だとは思ったが、それほど首をひねるような謎もなく、「どうしてこれが1位」という疑問が続いていた。しかし、そこでのどんでん返しには、さすがにびっくりした。でもこれは、あの作家がよく書く・・・・それ以上書けないのがつらい。 そういえばそこまでの様々な伏線が思い起こされた。このように、あそこにも、ここにもヒントが・・・という小説は私は好きだ。やはり、これはたいした作品なのかもしれない。 (文藝春秋 1857円+税) |